ペロポネソス‐せんそう〔‐センサウ〕【ペロポネソス戦争】
ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/01 01:40 UTC 版)
アテナイは当時、最強の海軍を持ち、古代ギリシアの周辺部の重要な港をいくつも支配していた。スパルタとペロポネソス同盟は強力な陸軍を持ち、古代ギリシャの心臓部ともいえる地域を支配していた。アテナイの急速な成長を恐れたスパルタによってペロポネソス戦争が始められた。国内に多くの被抑圧民を抱えるスパルタには長期間の遠征が無理だったため、直接アテナイを攻略する戦略をとった。一方、アテナイの指導者ペリクレスは籠城戦を選んだ。陸戦を耐え抜いて得意の海戦でスパルタを圧倒する作戦だった。
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ペロポネソス戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:00 UTC 版)
デロス同盟への支配を強化したアテナイは徐々に巨大化していったが、スパルタ率いるペロポネソス同盟はこれを脅威と認め、紀元前431年にペロポネソス戦争(第二次ペロポネソス戦争とも)が勃発することとなった。戦いの前半戦はアテナイが有利に戦いを進め、紀元前421年に一度、「ニキアスの和約」が結ばれ戦いが終了した。しかし、アテナイがシケリア遠征を行なったことから紀元前415年、再び戦争が開始された。アテナイはデケレイアをスパルタ軍に押さえられたことにより、穀物の生産が不可能となり、また、港もスパルタ軍に押さえられたことにより紀元前404年、降伏し、ここにペロポネソス戦争は終わりを告げた。 ペロポネソス戦争に勝利したスパルタはギリシャにおける最有力ポリスとなったが、スパルタはギリシャの覇権を得るために強引な政策を進め、これにコリントス、テーバイは反発していた。そして王が交代したペルシアはイオニア地方のポリスへの圧力を強めたため、スパルタはこれを打破するために遠征を開始したが、戦いは膠着状態に入り長引いていた。そのため、スパルタは再度、諸ポリスに遠征参加を呼びかけたが、コリントス、テーバイ、アテナイはこれに応じず、反対にペルシアから資金を受け取っていた。紀元前395年、コリントス、テーバイ、アテナイ、アルゴスはスパルタへの挙兵を開始、ここに「コリントス戦争」が開始された。結局、紀元前386年、ペルシア王の介入で休戦(アンタルキダスの和約)が結ばれたが、小アジアやキプロスのポリスはペルシアの支配するものとなった。 その後、テーバイはアルカディア連邦を結成、スパルタへの攻撃を開始、スパルタはリュクルゴス体制が限界を迎えており、これ以降衰退を見せペロポネソス同盟も解散することとなった。紀元前378年、アテナイは第二回海上同盟(英語版)(デロス同盟を一度と数える)を結成、ゆるやかな団結を行い、紀元前375年、ナクソス沖の海戦(英語版)でギリシャへの野望に燃えるペルシア軍を打ち破っていた。しかし、この勝利によりアテナイは再び支配強化に動き出したため、紀元前357年、「同盟市戦争 (紀元前357年–紀元前355年)(英語版)」が勃発、テーバイとアテナイは激戦を開始することとなった。しかしこの戦いの間に「第三次神聖戦争(英語版)」が勃発、ギリシャは混乱に見舞われることとなった。紀元前355年、第二次海上同盟の崩壊という形で同盟市戦争は終わりを告げたが、第三次神聖戦争は続いていた。この最中、紀元前356年アレクサンドロスが生まれた北のマケドニアがアンフィリポリスを占領、ギリシャへの侵食を開始した。
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ペロポネソス戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 16:13 UTC 版)
紀元前460年、アテナイ(デロス同盟)とスパルタ(ペロポネソス同盟)との間に第一次ペロポネソス戦争(紀元前460年-紀元前445年)が勃発する。紀元前457年、スパルタは方針を転換し、中部ギリシャにおいてアテナイに対抗できる勢力としてボイオーティアにおけるテーバイの復権を認めた。アテナイはオイノフュタの戦い(紀元前457年)でボイオーティア同盟を破り、テーバイを除く全都市を占領してボイオーティアを支配下に置いたが、テーバイのカドメアの要塞はアテナイに対する抵抗の拠点として持ちこたえた。デルポイをめぐる第二次神聖戦争(紀元前449年-紀元前448年)の終息後、ボイオーティアの諸都市はアテナイに対して反旗を翻すようになった。コロネイアの戦い(紀元前447年)でボイオーティアなどの連合軍はアテナイに勝利、アテナイはボイオーティアから撤退し、ボイオーティアの諸都市は独立を取り戻した。 紀元前431年、(第二次)ペロポネソス戦争(紀元前431年-紀元前404年)が勃発するが、テーバイはスパルタの忠実な同盟者としてアテナイと戦った。これに対してアテナイはプラタイアをはじめとする小規模な都市を支援してテーバイを苦しめた。紀元前427年、テーバイは因縁の深いプラタイアを占領し、破壊している。紀元前424年にはデリオンの戦い(英語版)で、テーバイをはじめとするボイオーティア軍はアテナイ軍を破り、テーバイの軍事的な実力が示されることとなった。
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ペロポネソス戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/12 06:53 UTC 版)
トゥキディデスによれば、紀元前431年4月、闇夜と嵐に乗じて、300人のテーバイ兵がプラタイアに侵入した。これは2人のプラタイア市民の手引きによるもので、彼らはテーバイ兵が市の指導者を捕えるか殺害してテーバイとの同盟を迫るだろうと考えた。しかし、テーバイ側の指揮官たちは誰も傷つけずに、プラタイア側にテーバイとの同盟に同意するよう説得を始めた。プラタイア側の指導部はいったんこれを受け入れるものの、まもなく侵入者は少数であり、打ち負かすのはたやすいと考えを改めた。プラタイアの市民はテーバイ兵を攻撃した。テーバイ兵300人のうち約170人を殺害した。この攻撃は、女性や奴隷も参加した数少ないケースである。アテナイは、事態を伝えるプラタイアからの伝令に、テーバイの捕虜を殺さないよう伝えるべく送り返したものの時遅く、プラタイアでは激高した市民によって捕虜たちが全員殺された後であった。 トゥキディデスによれば、この数時間の出来事により、テーバイとボイオーティア同盟は兵力の12%を失ったという。アテナイはプラタイアを救援すべく軍を派遣した。プラタイアの女性や子供、兵役を務めることができない男性は、アッティカに避難した。テーバイによるプラタイアへの先制攻撃は、この後27年間続くペロポネソス戦争の起点の一つと見なされている。 紀元前429年夏、スパルタ王アルキダモス2世はペロポネソス同盟軍を率いてプラタイアに侵入し、収穫を奪った。プラタイアはスパルタに使者を送ってペルシャ戦争勝利の栄光を思い起こさせた。スパルタ人はプラタイアを「聖地」として保護し、プラタイアが独立の状態を保つことを認める一方、プラタイアに攻撃を加えない代わりに、プラタイアが中立を保つことを認める取り決めを結ぶことを提案した。プラタイアはアテナイとの協議の結果スパルタの提案を拒絶し、都市の防御を固めた。スパルタはただちにプラタイアを包囲し、さまざまな手段で攻めたが陥落させることはできなかった。スパルタ軍は都市を包囲する城壁を築き、必要な兵力を残して撤退した。 スパルタおよびテーバイによって包囲されたプラタイアでは、アテナイの援軍も望めない絶望的な状況の中で冬を越した。220人ほどが包囲を突破して脱出することも行っている。しかし、プラタイアでは物資が尽き、援軍も望めない中で、紀元前428年夏にスパルタに降伏した。スパルタは捕虜に対する「公正な裁判」を約束していたがこれは行われず、スパルタへの協力を拒否した200人ほどのプラタイア市民が殺害された。テーバイは都市をすべて破壊し、その廃材を用いてヘーラーを祀る神殿を建設した。 その後、紀元前386年に都市は再建された。
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ペロポネソス戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:48 UTC 版)
詳細は「ペロポネソス戦争」を参照 ペルシア戦争での威信を利用したアテナイが急激な軍備拡張と諸ポリスの占領・隷属化を進め、ギリシア最強の都市国家として拡張していく様子に対し、他の多くのポリスはアテナイの専横的かつ強圧的な振る舞いを苦々しく感じていた。アテナイが帝国主義的な振る舞いを加速するに連れデロス同盟内のポリスからも反発が起こるようになった。そして元々農業国でペルシア戦争のもう一つの戦勝功績国スパルタは、こうしたアテナイの拡張・侵略政策と相容れないポリスを支援して両者は激しく対立するようになる。 紀元前431年、アテナイとスパルタを中心とするペロポネソス同盟の間にペロポネソス戦争が開始された。陸戦に強いが国内に多くの農奴及び奴隷を抱えるスパルタ、海戦に強いが国内に多くの奴隷及び国外に多数の隷属都市を抱えるアテナイは、共に政治的な不安定さと国家組織の未発達から長期間の遠征が無理であったため、指導者ペリクレスは籠城戦を選択する。陸での決戦を避けて戦力を温存、強大な海軍と合わせ海外の植民地を維持し長期戦に耐える計画であった。 紀元前429年、アテナイ城内に蔓延した疫病(19世紀にはペスト説が有力であったが、実際は別の伝染病であったと考えられる)によってペリクレスを含めた多数の人間が死亡した後、漸次隷属させていた植民地が離反するなどしてアテナイは劣勢に立たされ、戦争は紀元前404年にスパルタの勝利の内に終結した。
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ペロポネソス戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/08 20:34 UTC 版)
紀元前449年、ペルシア戦争を勝利で終結させたデロス同盟であったが、その後同盟はアケメネス朝ペルシアの勢力が弱まるにつれ本来の性格を失い、同盟に対するアテナイの支配力が強まっていった。デロス島に置かれてあった財務局も紀元前454年アテナイに移され、ペリクレスの時代になると、同盟はアテナイ帝国へと変貌させられた。年賦金も当初の総額460タラント紀元前425年には総額ほぼ1500タラントに上がり、それらはもっぱらアテナイのための神殿建築や軍資金の重要な資金源となった。同盟都市はもはや政策立案に参画することなく、事実上アテナイの属国と化した。アテナイ帝国の発展が多くのギリシア諸都市の自治を破壊しあるいは脅かすにいたり、アテナイと並ぶギリシア諸都市の指導的立場だったスパルタは自らの地位への脅威を感じアテナイへの不信を強め、スパルタを中心とするペロポネソス同盟とアテナイを中心とするデロス同盟の対立は深刻化していった。 そして紀元前431年、スパルタは同盟諸市の要請もあり、アッティカに侵入、ペロポネソス戦争が始まった。ニキアスの和約までの前半はアルキダモス戦争とも呼ばれ、戦いはアテナイ側の二倍の重装歩兵をもつスパルタ側が陸から包囲したのに対し、圧倒的な海軍力を誇るアテナイは、ペリクレスの指導の下市民を城壁内に籠城させ、陸上では防御、海上では攻撃という戦略に出た。この戦略はリオンやナウパクトスなどの海戦の勝利など戦争のアテナイ側の実質的勝利に寄与し、途中、猛威をふるった悪疫によって人口の4分の1とペリクレスを失うという打撃を受けながら戦局を有利に展開していった。
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ペロポネソス戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 00:48 UTC 版)
デルキュリダスはペロポネソス戦争中の紀元前411年の夏にアビュドスをアテナイとの同盟から離反させるために部隊と共にヘレスポントスに送られ、アビュドス、そしてランプサコスをスパルタ側につけてその任を果たした。
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ペロポネソス戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 07:44 UTC 版)
「リュサンドロス (提督)」の記事における「ペロポネソス戦争」の解説
リュサンドロスはペロポネソス戦争の後半にスパルタ艦隊を指揮した。彼は紀元前405年にペロポネソス戦争最後の海戦アイゴスポタモイの海戦でアテナイ艦隊と戦った。この海戦でリュサンドロスは敵を油断させた後に奇襲するという作戦でアテナイ艦隊を完膚なきまでに破り、アテナイの穀物輸送ルートを押さえた。その後、アテナイはスパルタ軍に包囲され、翌紀元前404年に無条件降伏に追い込まれた。
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