ペロポネソス半島、セルビアの征服
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「メフメト2世」の記事における「ペロポネソス半島、セルビアの征服」の解説
ベオグラードの敗北と同じ時期、ルーマニアのモルダヴィアを臣従させ、モルダヴィアに和平と引き換えの貢納金を課した。また、ワラキアではヴラド・ツェペシュが公に即位する。メフメトはワラキアとモルダヴィアを臣従国としながらも、一定の自治を認めていた。 ペロポネソス半島に残る東ローマ系国家モレアス専制公国では、共同の君主であるソマスとディミトリオスの兄弟が互いに争っており、ベオグラード包囲後に兄弟はオスマンへの貢納を拒否する。メフメトは何度も貢納の再開を要求するがモレアスは返答せず、メフメトはペロポネソス半島への親征を決定する。 1458年春にメフメトはペロポネソス半島に進軍し、ソマスとディミトリオスは宮廷から逃走する。ペロポネソス半島の3分の1がオスマン帝国の支配下に入り、ソマスとディミトリオスには領土の保持と引き換えに貢納金を課した。また、メフメトは遠征で獲得したパトラの立地と整備された海港に着目し、町を発展させるために住民を保護し、特権を付与した。同年、オスマンの将軍エメルの策略により、アテネ公国がオスマン帝国に併合される。 1458年初頭よりセルビアは後継者問題で反オスマン派と親オスマン派に分かれており、親オスマン派はメフメトにセルビアへの派兵を要請した。初めにセルビアには宰相マフムト・パシャを司令官とする軍隊が派遣され、メフメトはモレアス遠征の帰路にマフムト・パシャの軍に合流する。1459年春にオスマン軍はボスニア王ステファン・トマシェヴィッチよりスメデレヴォを譲渡され、ベオグラードを除くセルビアの征服を完了した。 さらにセルビアの征服はボスニアへの進出の足掛かりとなり、1460年にボスニアへの攻撃を開始した。貴族間の抗争と、ボスニア王国で迫害を受けていたボゴミル教徒の支持により、オスマン軍のボスニア進出は容易に進んだ。オスマン軍はボスニア内に要塞を建設するとともに、農民に保護を与えて支持を得ていく。ステファン・トマシェヴィッチはローマ教皇に宛てて、自国の窮状とメフメトがイタリア、ダルマチア、ハンガリーの征服を企てていることを訴える書簡を送った。 1459年初秋、メフメトはギリシャ各地を訪問した。歴史家ミカエル・クリトヴォロス(英語版)は、メフメトは廃墟や遺跡を見学し、住民が語るギリシャの歴史に耳を傾けたと伝えている。また、1459年の初頭より、ペロポネソス半島では教皇庁と西ヨーロッパの援助を受けたソマスの指導による反乱が発生していた。西ヨーロッパが反乱に加担していることを知ったメフメトは軍隊を派遣するが、モレアス側との交渉は失敗し、混乱はより拡大する。 1460年5月にメフメトはペロポネソス半島に再び親征を行い、1461年春に遠征を終えて帰国する。1461年7月に1年にわたってオスマン軍に頑強に抵抗していたサルモニコンが陥落したことでモレアス専制公国の征服が完了し、ペロポネソス半島の大部分がオスマンの支配下に入った。ソマスはイタリアに逃亡し、オスマンに降伏したディミトリオスはメフメトから手厚い保護を受けた。
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