ペロポネソス半島、セルビアの征服とは? わかりやすく解説

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ペロポネソス半島、セルビアの征服

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 21:13 UTC 版)

メフメト2世」の記事における「ペロポネソス半島、セルビアの征服」の解説

ベオグラード敗北と同じ時期ルーマニアモルダヴィア臣従させ、モルダヴィア和平引き換え貢納金を課したまた、ワラキアではヴラド・ツェペシュ公に即位するメフメトワラキアとモルダヴィア臣従国としながらも、一定の自治認めていた。 ペロポネソス半島に残る東ローマ国家モレアス専制公国では、共同君主であるソマスディミトリオス兄弟互いに争っており、ベオグラード包囲後に兄弟オスマンへの貢納拒否するメフメト何度も貢納再開要求するモレアス返答せず、メフメトペロポネソス半島への親征決定する1458年春にメフメトペロポネソス半島進軍しソマスディミトリオス宮廷から逃走するペロポネソス半島3分の1オスマン帝国の支配下に入りソマスディミトリオスには領土保持引き換え貢納金を課したまた、メフメト遠征獲得したパトラ立地整備され海港着目し、町を発展させるために住民保護し特権付与した同年オスマン将軍エメル策略により、アテネ公国オスマン帝国併合される1458年初頭よりセルビア後継者問題で反オスマン派と親オスマン派に分かれており、親オスマン派はメフメトセルビアへの派兵要請した初めにセルビアには宰相マフムト・パシャを司令官とする軍隊派遣されメフメトモレアス遠征帰路にマフムト・パシャの軍に合流する1459年春にオスマン軍ボスニア王ステファン・トマシェヴィッチよりスメデレヴォ譲渡されベオグラードを除くセルビア征服完了した。 さらにセルビア征服ボスニアへの進出足掛かりとなり、1460年ボスニアへの攻撃開始した貴族間の抗争と、ボスニア王国迫害受けていたボゴミル教徒支持により、オスマン軍ボスニア進出容易に進んだオスマン軍ボスニア内に要塞建設するとともに農民保護与えて支持得ていく。ステファン・トマシェヴィッチはローマ教皇宛てて自国窮状メフメトイタリア、ダルマチアハンガリー征服企てていることを訴え書簡送った1459年初秋メフメトギリシャ各地訪問した歴史家ミカエル・クリトヴォロス(英語版)は、メフメト廃墟遺跡見学し住民が語るギリシャの歴史耳を傾けた伝えている。また、1459年初頭より、ペロポネソス半島では教皇庁西ヨーロッパ援助受けたソマス指導による反乱発生していた。西ヨーロッパ反乱加担していることを知ったメフメト軍隊派遣するが、モレアス側との交渉失敗し混乱はより拡大する1460年5月メフメトペロポネソス半島に再び親征行い1461年春に遠征終えて帰国する1461年7月1年わたってオスマン軍頑強に抵抗していたサルモニコンが陥落したことでモレアス専制公国征服完了しペロポネソス半島大部分オスマン支配下入ったソマスイタリア逃亡しオスマン降伏したディミトリオスメフメトから手厚い保護受けた

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