ペロポネソス戦争からローマ帝国
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「アカルナニア」の記事における「ペロポネソス戦争からローマ帝国」の解説
アカルナニア地方はイタリアへの海路上に戦略的に位置するため、多くの戦争に巻き込まれた。最良の港をすべて奪ったコリントスの入植者に対する憎しみは、当然の帰結として、アカルナニア人をアテナイ側に追いやった。しかし後者との同盟の直接の原因は、紀元前432年頃にアンブラキアから入植したコリントス人が、アンピロキア人をアンピロキア・アルゴスから追放したことによって生じた。アカルナニア人は追放されたアンピロキア人を支持し、後者の回復を得るためにアテナイに援助を申し出た。アテナイ人はこれに応じて、ポルミオンの指揮のもと出兵した。ポルミオンはアルゴスを占領して、アンブラキア人を追放、都市をアンピロキア人とアカルナニア人に戻した。直ちにアカルナニア人とアテナイの間で同盟が正式に締結された。同盟に参加しなかった都市はオイニアダイとアスタコスだけであった。 アカルナニア人はギリシア西部地域におけるアテナイの覇権を維持するのに大いに貢献した。特にアカルナニア人は前426年のオルパイの戦い(英語版)においてデモステネスの指揮下でその存在感を見せつけ、ペロポネソス人とアンブラキア人に対して大勝利した。この戦役の終わりに、彼らはアテナイとの同盟関係を継続していたが、アンブラキアと和平を結んだ。紀元前391年、アカルナニア人はアイトリア地方の都市カリュドンを保持していたアカイア人と戦争した。後者はアカルナニア人に強く押されていたため、スパルタに救援を求め、スパルタはアゲシラオス2世指揮する軍隊をアカルナニアに派遣した。後者はアカルナニア地方を略奪したが、アゲシラオス2世の遠征は長期的な結果が伴わなかった。アカルナニアの都市はスパルタに降伏し、しばらくの間スパルタの同盟国となる一方で、前375年にアテナイの第二次海上同盟(英語版)に加わった。アカルナニア人は後にスパルタとの戦いでボイオティア人を支持し、カイロネイアの戦いではマケドニア王ピリッポス2世と戦ったアテナイを支持した。 アレクサンドロス大王死後の時代の前314年、マケドニア王カッサンドロスの要請により、アイトリア地方との国境近くのアカルナニアの集落は少数のより大きな集落に集住した。それでも、アイトリア人と国境をめぐる紛争は頻発し、前250年にアカルナニアの領土はアイトリアとエペイロスの間で分割された。エペイロス王が倒れた後、エペイロス領となっていたアカルナニアの領土は独立を取り戻し、レウカスはこの地域の首都になったが、アイトリア人との対立は残っていた。その結果、アカルナニア人はマケドニアの王たちと緊密に団結し、有為転変の中でも忠実であり続けた。ピリッポス5世に対しても同様であった彼らがローマに服従したのは、主要都市であるレウカスが占領され、キュノスケファライの戦いでピリッポス5世が敗北した後のことであった。前191年、シリアのアンティオコス3世がギリシアに侵攻すると、アカルナニア人は同胞のムナシロコスに説得されて、アンティオコス3世を支持したが、彼がマグネシアの戦いで敗北し、ギリシアから追放されると再びローマの支配下に置かれた。前168年のマケドニア王ペルセウスの敗北後、ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスとローマの委員によるギリシア情勢の解決において、レウカスはアカルナニア地方から分離され、テュリオンが新首都に任命された。 前1世紀、アカルナニア地方は海賊とローマの内戦によって大きく苦しんだ。ギリシアがローマの属州として縮小されたとき、アカルナニア地方がアカエア属州あるいはエピロス属州(英語版)に併合されたかどうかは疑わしいが、後にエピロスの一部として言及されている。その町のいくつかの住民は、アウグストゥスによってアクティウムの海戦後に建設されたニコポリス(英語版)に移され、アカルナニア地方はニコポリスの支配下に置かれた。そしてアウグストゥスの時代には、ストラボンによって絶え間ない戦乱のために完全に疲れ果ててしまったと説明された。
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