アウグストゥス 【Augustus】
アウグストゥス
アウグストゥス
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アウグストゥス(羅: Augustus, 紀元前63年9月23日 - 紀元14年8月19日[1])は、共和政ローマの政務官でありユリウス=クラウディウス朝ローマにおける初代元首(皇帝)(在位:紀元前27年 - 紀元14年)。ガイウス・ユリウス・カエサルの姪の息子に当たり、その暗殺後に養子となってマルクス・アントニウスらを倒し内乱を勝ち抜きプトレマイオス朝エジプトを併合して地中海世界を統一し、プリンキパトゥス(元首政)を創始して後にパクス・ロマーナと称される時代の礎を築いた。
- 1 アウグストゥスとは
- 2 アウグストゥスの概要
アウグストゥス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 09:28 UTC 版)
「ユリウス=クラウディウス朝」の記事における「アウグストゥス」の解説
民衆派の指導者として元老院の支配を打倒したオクタウィアヌスは、アウグストゥスと名を改めて事実上の世襲君主による帝政(プリンキパトゥス)を開始した。しかし肝心のアウグストゥス本人が男子に恵まれず、また男子の兄弟もいなかったことから男系子孫による世襲を早い段階で諦め、一人娘の大ユリアと姉の息子マルケッルスをいとこ婚させて、少しでも自身に近い血縁で帝位を独占しようと試みた。 だが、マルケッルスは紀元前23年に食中毒で子を残さずに早世してしまい、アウグストゥスは次に娘を腹心であったアグリッパと再婚させた。今度は3人の男子が生まれたが、長男ガイウス・カエサルは戦死、次男ルキウス・カエサルは早世、そして三男のアグリッパ・ポストゥムスは祖父と対立して追放された。 孫を失った後、アウグストゥスはアグリッパ死後に大ユリアへ3度目の再婚を命じた。今度の相手は自らの後妻リウィア・ドルシッラの連れ子であり、弟大ドルススと並んで優れた軍司令官として知られていたティベリウスであった。ティベリウスと大ユリアは決して良好な間柄ではなく、結婚生活の不調もあってアウグストゥスと敵対したティベリウスは一時期、自発的にロドス島へ亡命生活を送っていた。 しかし、ティベリウスの弟である大ドルススがマルクス・アントニウスの次女小アントニアと結婚して子供(ゲルマニクスとクラウディウス)を得ていたこともあり、「甥の後見人」という立場でポストゥムス追放後にティベリウスを帝位継承者に指名した。
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アウグストゥス
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「この私、クラウディウス」の記事における「アウグストゥス」の解説
ローマ帝国の初代元首。明るく開放的な性格の持ち主。クラウディウスの才能を一定に評価しており、クラウディウスは敬愛していた。妻リウィアによって暗殺される。
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「アウグストゥス」の例文・使い方・用例・文例
- ローマ皇帝アウグストゥスの時代に関連する、またはこれに特有の
- アウグストゥスの時代
- アウグストゥスの孫娘で、カリグラとアグリッピ・ヤンガーの母親(紀元前14年−紀元後33年)
- アウグストゥスの義理の息子で、輝かしい軍人としてのキャリアの後、ローマの疑い深い専政的な皇帝になった(紀元前42から紀元37年)
- 紀元前46年にジューリアス・シーザーがローマに導入し、アウグストゥスが若干変更した、1年が365日で12か月から成り、4年に1回は366日の年があり、2月以外は1か月が31日または30日である太陽暦
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