アウグストゥスによるローマの整備
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「ローマ建築」の記事における「アウグストゥスによるローマの整備」の解説
ユリウス・カエサルと、その後継者にしてローマ帝国の初代皇帝となったアウグストゥスは、保守的傾向の強い共和政末期の建築を継承した。彼らが、元老院が統治する共和制から、皇帝に権力が集中するという政治組織に転換したことによって、皇帝の影響力は絶大なものとなるが、建築も例外ではなく、なによりもまず皇帝自身の好みや選択が建築の形態を決定するようになった。これはローマ建築の新たな潮流であり、時代が下るにつれてこれが顕著に現れてくるが、アウグストゥスが皇帝になった当時は複数の流行が同時代的に見られ、彼の時代に特有な建築的特徴というものはあまり見られない。アウグストゥスは絶大な権力を保持していたが、自らを共和体制の秩序の中に留めるよう慎重に振る舞っており、一個人としての彼の趣味や傾向が、ひとつのスタイルとなって建築に反映されることはなかったようである。 しかし、アウグストゥスの好みを示唆する建築物が全くなかった、というわけではなく、彼の時代を代表する建築物はいくつか挙げられる。そのひとつがアウグストゥスのフォルムで、最終的に完成したのは概ね1世紀末と考えられているが、建築の骨格部分はアウグストゥス存命中にはすでに完成していた。全体構成はカエサルのフォルムを繰り返したもので、建築として際立った特徴は持っていない。ただし、スエトニウスが、アウグストゥスが煉瓦の都市であるローマを、大理石の都市として残したことを誇りにしていたと記録しているように、このフォルムには類を見ない大理石装飾がふんだんに取り入れられており、これがアウグストゥスの嗜好を示す数少ない事例のひとつとなっている。大理石彫刻はネオ・アッティカ派の職人の手によるもので、屋階のカリアティードは、アテナイのエレクテイオンを模倣したものである。 同じく、ネオ・アッティカ派によるアウグストゥスの時代の彫刻作品として、アラ・パキス(平和の祭壇)を挙げることができよう。アラ・パキスは、13年の内乱平定を記念して造られた祭壇で、政務官やウェスタの巫女が毎年儀式を行うことになったが、これはアウグストゥス自身の偉大さを誇示するものであった。様々な植物が絡み合う知的で洗練された彫刻は完成度が高く、ギリシア美術の影響は歴然としているが、一方で、祭壇を壁で囲む構成や、アウグストゥスを中心として明確な位階を表現する手法はローマのものである。このようなアウグストゥスのフォルムやアラ・パキスの性格は、ギリシア芸術の権威とローマの建築工房の保守的傾向の帰結であり、彼の時代のローマ建築の特徴を端的に示している。 アウグストゥスによるローマの大規模な整備は、彼の部下で友人でもあったマルクス・ウィプサニウス・アグリッパの手腕によるところが大きい。特に開発が進められたのが、アラ・パキスの建つカンプス・マルティウスであった。この場所は、長らく宗教的タブーによって未開発のままだったが、アグリッパはテヴェレ川の治水工事を行って敷地を確保し、エジプトから取り寄せたオベリスク を指針とする日時計の広場を造営した。さらにウィルゴ水道とユリア水道を建設。これとともに水道管理官を組織して水道の分岐管を計測して送水量を調整するなど、ローマの上水道システムを整備した。そしてローマ市初となる浴場、およびパンテオンを建設したが、これらは80年の火災によって完全に失われている。
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