共和政末期
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「第7軍団クラウディア・ピア・フィデリス」の記事における「共和政末期」の解説
軍団はユリウス・カエサルがガリアへ進出した際(ガリア戦争)には存在しており、カエサルの部下のプブリウス・リキニウス・クラッスス(三頭政治の同僚クラッススの息子)のもとで活躍したものと思われる。カエサルのもとで、紀元前55年からのブリタンニア侵攻にも従軍、ウェルキンゲトリクスが歴史の舞台に登場した時はルテティア(現:パリ)近郊で戦っており、アレシアの戦いにも参加した。 カエサル派とグナエウス・ポンペイウスら元老院派との内戦ではカエサル派として軍団はヒスパニアへと転戦、紀元前48年のデュッラキウムの戦いに従軍、とくに続いてのファルサルスの戦いでは重要な功績を挙げた。戦後軍団は解散、軍団兵は退役となったが、紀元前46年には再び結束してカエサルのアフリカ遠征に助力した。功績により軍団兵たちはカプアとルッカの土地を譲り受けるが、紀元前44年にカエサルが暗殺されると第7軍団に所属するベテランの多くがカエサルの後継者オクタウィアヌスの指揮下に入り、第7軍団は再び編成される。その際には「パテルナ」(=「古参の者」の意)という名で呼ばれていたらしい。そして紀元前43年のムティナの戦い、紀元前42年のフィリッピの戦いに参戦した。 その後もオクタウィアヌスの指揮のもと紀元前36年には(おそらくシチリア島を占拠したポンペイウスの息子セクストゥス・ポンペイウスとの戦いのためだろうと思われるが)ガリア南部に転戦する。その後のオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスは対立の中で第7軍団はアクティウムの海戦にも参戦していた可能性も指摘されている。戦後はマウレタニアに駐在となった。
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共和政末期
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軍団はカエサル指揮のもとファルサルスの戦い、ムンダの戦いに従軍、カエサルの暗殺後の第二回三頭政治期はマルクス・アントニウスの指揮下に入り、パルティアへの遠征に参戦した。その後アクティウムの海戦に参戦するもアントニウスが敗れ第3軍団は降伏する。指揮官のアントニウスが自死すると軍団は東方へと派遣され、属州シリアの赴任となった。
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