共和政初期の戦争(紀元前505年-紀元前504年)
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「ローマ・サビニ戦争」の記事における「共和政初期の戦争(紀元前505年-紀元前504年)」の解説
王政ローマの消滅は、サビニにローマとの政治的位置の変更の野望を与えた。ローマとの条約はその王と締結したものであり、その王が今はいなくなったためである。 ハリカルナッソスのディオニュシオスによると、セクストゥス・タルクィニウス(最後の王タルクィニウス・スペルブスの子)によるルクレティアの陵辱が王政廃止のきっかけを作ったのであるが、彼はサビニに対して、ローマに王政を復活させるべきと説いた。サビニ軍はサビニ人将軍の指揮官のもとローマに向かったが、簡単に敗北した。セクストゥス(あるいはスペルブス)はサビニ軍は統制が取れていないとし、フィデナエおよびカメリアからの援軍を要請した。彼らはセクストゥスの自信に影響され、彼を反ローマ軍の総司令官とした。 リウィウスはこの戦争に関するタルクィニウスの関与には言及していない。彼によると、紀元前505年にローマとサビニの間に戦争が起こり、執政官マルクス・ウァレリウス・ウォルススとプブリウス・ポストゥミウス・トゥベルトゥスが凱旋式を行っている。この凱旋式は凱旋式記録で確認できるが細部は失われている。 翌年には両者の対立がさらに高まった。執政官プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ(4回目)、ティトゥス・ルクレティウス・トリキピティヌス(2回目)であった。リウィウスによると、サビニの緊張の高まりが、彼ら経験を有する執政官の選出につながった。 ディオニュシオスによると、サビニ軍は、おそらく対岸にローマ軍が布陣していたために、アニオ川の手前で停止した。サビニ軍は、フィデナエ近郊および市内に野営した。対するローマ軍は、プブリコラがサビニ近郊に、トリピティヌスがフィデナエ近郊の丘の上に野営した。 リウィウスもディオニュシオスも、後にアッピウス・クラウディウス・サビヌス・インレギッレンシス(クラウディウス氏族の創始者)と呼ばれることになるアッティウス・クラウススが、親族一同、500人の兵士およびクリエンテスと共にローマへ亡命したのはこのときであると一致している。ローマはクラウディウスを元老院議員とし、亡命サビニ人にアイノ川の北側の土地を与えた。ディオニュシオスによると、ローマはアイノ川北岸、フィデナエ周辺の土地も約束したが、そのためにはフィデナエと戦って奪い取る必要があった。リウィウスによるとクラウディウスはサビニの和平派の一人であったが、戦争派との対立のためにインレギルム(en )からローマへ亡命した。 ディオニュシオスによると、ローマ軍はサビニ軍に以下のように勝利した。タルクィニウスの計画では、プブリコラの野営地に対して夜襲をかけ、塹壕を埋めて壁を梯子で乗り越えることとなっていた。フィデナエ市内の軍は出撃し、この攻撃を隠蔽すると共に、トリピティヌスの攻撃に備えた。しかし、サビニ軍からの脱走兵とローマ軍騎兵が捕らえた捕虜が、この計画をプブリコラに漏らした。この情報はトリキピティヌスにもすぐに伝えられた。攻撃は夜半過ぎに開始された。サビニ兵は塹壕を埋め、投げ縄で塀を乗り越えた。サビニ兵はローマ兵は備えもなく野営地にいると思っていた。後知恵にはなるが、タルクィニウスは彼の兵が立てる物音にも関わらず反攻がなく、また見張りもいなかったことから危険を察するべきであった。彼はローマ軍が熟睡しているためと判断したが、あきらかに過小評価であった。実際にはローマ軍は戦闘準備を整えており、カストラ(古代ローマの野営地)周囲の塁壁で待ち構えていたが、暗闇のためサビニ軍からは視認できなかった。サビニ兵が塀を乗り越えてくると、直ちに音を立てずに殺された。このとき月が昇ったが、サビニ兵が見たものは、待ち構えるローマ兵と自軍兵士の死体の山であった。サビニ兵は武器を捨て逃げ出した。静謐を維持する必要が無くなったため、ローマ兵は叫んだが、これは丘の上のトリピティヌスに対する合図でもあった。トリピティヌスは騎兵を出撃させ、待ち伏せしていたフィデナエ兵を撃破した。歩兵が続き、フィデナエ兵は虐殺された。サビニ兵は武器を捨てて個々に逃れていった。サビニ兵は13,500が戦死し、4,200が捕虜となった。戦闘はまだ終わらなかった。フィデナエは未だ陥落していなかった。 リウィウスは簡素に、両執政官がサビニ領に侵攻し、略奪を行い、サビニ軍に勝利し、ローマに凱旋した、と記する。凱旋式記録に残るのは、プブリコラがサビニとウェイイに勝利し、紀元前504年5月に凱旋式が行われたということのみである。
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