ローマとの条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/14 17:09 UTC 版)
カルタゴはいくつかの国家と条約を結んでいるが、最も有名なのは共和政ローマとの条約である。紀元前509年に締結された条約では、勢力圏と商業地域の正式な分割が含まれていた。この条約はカルタゴがシケリア(シチリア)およびサルディニア(サルデーニャ)、さらにはエンポリオンやアフリカのボン岬の南方にまでを支配領域としていたことを示す、最初の資料である。ローマはエトルリアとの紛争を支援してもらうためにポカイアおよびクマエとの条約を締結していたために、カルタゴはローマとの条約を結んだのかもしれない。カルタゴは同様の条約を、エトルリアおよびシケリアのフェニキア・ギリシア植民都市とも締結した。 紀元前6世紀終わりまでに、カルタゴは古いフェニキアの植民都市をほとんど占領した。ハルドメントゥム(en)、ウティカ、ケルクアン等で、また現在のモロッコからキレナイカとの国境にいたるまでの北アフリカ沿岸の古代リビュア部族を服属させていた。また、これら植民地と商業を守るための戦争を行っていた。しかしながら、現在まで伝えられているのはシケリアのギリシア植民都市との戦争についてのみであり、カルタゴが「シケリアに目を奪われていた」との印象を与える。
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