ローマとの分裂とは? わかりやすく解説

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ローマとの分裂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:48 UTC 版)

イングランド国教会」の記事における「ローマとの分裂」の解説

王権教皇権争いはあっても、イングランド教会中世通じてローマとの一致保ち続けていた。イングランド教会ローマの間に最初の決定的な分裂生じたのは、ヘンリー8世時代である。その原因ヘンリー8世離婚問題こじれたことにあった。すなわち、キャサリン・オブ・アラゴン離婚しようとしたヘンリー8世が、教皇婚姻の無効宣言するよう求めたにもかかわらず教皇クレメンス7世がこれを却下したことが引き金となった。これは単なる離婚問題というより、キャサリンの甥にあたる神聖ローマ皇帝カール5世思惑なども絡んだ複雑な政治問題であったヘンリー8世1527年教皇に対してキャサリンとの結婚無効認めるように願った1529年までに繰り返し行われた教皇へ働きかけ失敗に終わると、ヘンリー8世態度変えさまざまな古代以来文献を基に、霊的首位権もまた王にあり、教皇首位権違法であるという論文をまとめ、教皇送付した続いて1531年にはイングランド聖職者たちに対し、王による裁判権保留する代わりに10万ポンド支払うよう求めた。これはヘンリー8世聖職者にとっても首長であり、保護者であるということをはっきりと示すものとなった1531年2月11日イングランド聖職者たちはヘンリー8世イングランド教会首長であると認め決議行った。しかし、ここに至ってヘンリー8世教皇との和解模索していた。 1532年5月になると、イングランド聖職者会は自らの法的独立放棄し、完全に王に従う旨を発表した1533年には上告禁止法制定されそれまで認められていた聖職者教皇への上訴が禁じられカンタベリーヨーク大司教教会裁治の権力保持することになったヘンリー8世言いなりであったトマス・クランマーカンタベリー大司教の座に就くと、先の裁定に従ってクランマーが王の婚姻無効認め、王はアン・ブーリン再婚した教皇クレメンス7世ヘンリー8世破門したことで両者分裂決定的となったヘンリー8世1534年国王至上法首長令)を公布しイングランド教会トップ君臨したイングランド教会自由に出来地位就いたことは、ヘンリー8世離婚自由にできるというだけでなく、教会財産思うままにしたいという誘惑感じさせるものとなった。やがてトマス・クロムウェルのもとで委員会結成され修道院解散断行修道院保持していた財産国家移されていった。こうしてイングランド修道院破壊され荒廃した

※この「ローマとの分裂」の解説は、「イングランド国教会」の解説の一部です。
「ローマとの分裂」を含む「イングランド国教会」の記事については、「イングランド国教会」の概要を参照ください。

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