ローマとの宗教的関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 02:20 UTC 版)
「ユスティニアヌス1世」の記事における「ローマとの宗教的関係」の解説
5世紀半以降、東ローマ皇帝は教会の問題でますます困難な仕事に直面するようになっていた。一つには、あらゆる方面の急進主義者たちがキリストの性質に関する聖書の教義を擁護し、分派間の教義上の相違をつなぐためのカルケドン公会議の信条によって常に拒絶されていると感じていた。コンスタンディヌーポリ総主教フラヴィアノスへのローマ教皇レオ1世の教書は東方では悪魔の仕業であると考えられており、そのため誰もローマの教会について聞くことを望まなかった。しかしながら、皇帝はコンスタンティノポリスとローマとの統一を維持する政策を持っており、そしてこれは彼らがカルケドンで定められた線を歪めないことによってのみ可能であった。加えて、カルケドンによって動揺し不満を抱くようになっていた東方の諸派を抑制し、そして静めることを必要としていた。この問題は、東方で異議を唱えている反カルケドン派が数の上でもそして知的な能力でも共にカルケドン派に勝っていたので、いっそう難しいと分かった。両派の目標の不一致から緊張は増しており、ローマと西方を選択した者は東方を放棄しなくてはならず、そして逆もまた同様であった。 ユスティニアヌスは518年に彼の叔父が即位するとすぐに教会の国政術の論争の場に入り、483年からローマと東ローマの間に普及していた単性論の教会分裂を終わらせた。至高の教会権威としてローマ司教座を認めることは、彼の西方政策の基礎であり続けた。東方の多くの人々にとって、それは不愉快なことではあったが、それにもかかわらずユスティニアヌスはシルウェリウスやウィギリウスのようなローマ教皇に対して専制的なスタンスをとるために彼自身は完全に自由であると感じられた。 教会の教義上の派閥に妥協を受け入れさせることはできなかったが、彼の和解のための誠実な努力は教会の主要組織から賛同を得させた。Theopaschite論争(スキティ派が出した妥協案の公式)での彼の態度がその合図だった。当初、彼は文字上の粗探しになっているとする意見だった。しかしながら、次第にユスティニアヌスは問題となっている信条が正統であるかに見えただけでなく、単性論に対する融和的な手段たり得るかと理解するようになり、そして彼は533年にカルケドン派と単性論派との宗教会議を行う努力をしたが、無駄に終わった。 553年3月15日の宗教勅令で再びユスティニアヌスは妥協へ動き、教皇ヨハネス2世が帝国の宗派を正統信仰であると認めたと彼自ら祝福している。彼は最初に単性論の主教と修道士に厳しい迫害をしかけ、そしてそれによって広い地域の住民に敵意を持たせた深刻な大失敗を彼は最終的に矯正した。彼の不変の目標は単性論を味方に引き入れ、それでもなおカルケドン信条を放棄しないことだった。宮廷の多くの人々に対して、彼は十分に成功しなかった。特に皇后テオドラは単性論が無制限に受け入れられることを望んだであろう。 三章問題の非難(第2コンスタンティノポリス公会議参照)でユスティニアヌスは東方と西方を満足させようとしたが、どちらも満足させられなかった。教皇は非難に同意したものの、西方の人々は皇帝がカルケドン布告と相反する行いをしたと信じた。多くの使節が東方でユスティニアヌスに服従して現れたが、多くの特に単性論者たちは不満なままだった。晩年の彼は神学の問題にさらに献身したために、更に苦しめられた。
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