ローマでの従軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 06:58 UTC 版)
4世紀にわたりローマ皇帝は、ゲルマン諸部族を「同盟部族」として位置付け、彼らを不正規兵、すなわちフォエデラティとしてローマ軍のもとで常態的に使役してきた。これらの施策は、辺境の人々から重い税を免除したり軍事費を抑えるためであったが、皇帝たちは軍団を構成する兵をゲルマン部族の民から徴募することを常としていた。これらの臨時雇いの兵士の大半はゴート族の人々であり、彼らは382年(いくつかの部族は376年)にローマ軍に組み込まれ、そしてその見返りとして、帝国の境界線に居住してその居留地の地位を保つことが許されていた。 394年、アラリックはテオドシウス1世の下にフォエデラティの長として、簒奪帝エウゲニウスを討伐する遠征に従軍することになった。フリギドゥスの戦いとして伝わる決戦では、ジュリア・アルプス山脈の通過点にあるウィッパコ川の畔で戦端が開かれ、おそらくアラリックはこの戦役でアドリア海の最奥部に位置する北方辺境部にある、イタリア半島を守るこの自然の要塞の弱さを学習したのであろう。 395年、テオドシウス帝が世を去ると帝国は、その2人の子アルカディウスとホノリウスにそれぞれ分割相続された。帝国は東西に分割され、アルカディウスが東の帝国を、ホノリウスが西の帝国をそれぞれ支配することとなった。アルカディウス帝は政治に関心を示さず、実権を親衛隊長ルフィーヌス(英語版)に委ねた。ホノリウス帝も同様に政治能力に欠けており、側近に政治の実務を代行させた。その側近は先帝テオドシウスの腹心「総司令官(マギステル・ミリトゥム)」に任用されていた将軍スティリコであった。ところがスティリコは、東の帝国からアルカディウスの親衛隊長になるようにも指名されており、東西の帝国宮廷間における確執を招いていた。 エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』によれば、アラリックは東西両帝国における新体制の発足にともなう官職の移譲に対して、単なる一指揮官から常備軍を構成する一軍の将として取り立てられることを希望していたという。彼の昇進の望みは絶たれたものの、西ゴートが下モエシア(現在のルーマニアとブルガリアの一部)に定住する間に、反乱の期が熟していった。ゴート族はフリギドゥスの戦いで大損害を被った。同時代の噂によれば、西ゴートの兵を戦場の矢面に立たせることが、ゴート族を弱体化させる都合のよい方法だったのである。アラリックは、ローマの理不尽な仕打ちと戦後に与えられたわずかな見返りに失望した。そして、ローマ攻撃に転じるべきであり、そのために王に即位すべきだという考えを抱くようになった。ゴート人を祖先に持つ6世紀のローマの官僚ヨルダネスが、この時代の歴史を書き残している。それによれば、このとき新しい王とその民は、ローマの支配を受けて偽りの平和にあるよりも、自分たちの戦いによって新しい王国を希求する決意を固めたのである。 「フリギドゥスの戦い」も参照
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