ローマでの業績
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「アントニオ・カノーヴァ」の記事における「ローマでの業績」の解説
ローマに出発する前に、カノーヴァが生活に困らず勉強できるよう、友人たちがヴェネツィア議会に奨学金を申請してくれた。この申請は認められ、カノーヴァは3年の期限で、300ダカット(金貨)の奨学金を得ることができた。また、ヴェネツィア大使で、芸術に詳しく、寛大な保護者であったジローラモ・ツリアンへの紹介状も貰うという、これ以上はない手厚い扱いを受けた。 カノーヴァがローマに到着した1780年12月28日は、カノーヴァの新時代の始まりの日であった。カノーヴァにとって、ローマは、古代ローマの遺跡の勉強をすることで自分自身を完成に向かわせ、また、そこに住む美の巨匠たちと競争することで自分の才能を試すことができる、願ってもない都市だった。カノーヴァにとっても友人たちにとっても、その結果を出すことが最高の希望だった。そのローマにカノーヴァの名を知らしめた最初の作品は、現在ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館にある『テセウスとミノタウロス』(1781年 - 1783年)だった。等身大よりやや大きめの作品で、ミノタウロスの死骸の上に、勝利したテセウスが腰掛けている姿が描写されていた。テセウスの全身の隅々までありありと見える疲労困憊ぶりは、恐るべき死闘の激しさを見事に物語っていた。その簡潔さと自然主義的な表現は、カノーヴァのスタイルを特徴づけていて、勇壮さと自然の高尚な概念がこの時結合されたのであった。テセウス像は熱烈な賞賛を浴びた。 カノーヴァの次の作品は、ローマ教皇クレメンス14世の記念碑だった。その仕事に取りかかる前に、カノーヴァはヴェネツィア議会の許可を得なければいけないと考えた。奨学金を貰っている限り、彼は教皇ではなく、ヴェネツィア議会に仕えていたからだ。カノーヴァはヴェネツィアに戻り、直接議会に嘆願し、無事それは許可された。カノーヴァはすぐさまローマに引き返すと、バブイーノ通りの近くに工房を開いた。最初の2年はひたすらデザインの整理とモデルの構図に費やし、さらに2年をかけて、1787年、ようやく教皇の記念碑は完成した。熱狂的な「ディレッタント」(英,伊:dilettante、好事家。学者や専門家よりも気楽に素人として興味を持つ者)の意見では、この記念碑はカノーヴァが現代最初の芸術家である刻印だとされている。 5年間休みなく働いた後、カノーヴァはさらにローマ教皇クレメンス13世のための慰霊碑も完成させ(1787年 - 1792年)、それはカノーヴァの名声をさらに高めることになった。カノーヴァのノミから立て続けに作品が作られた。そうした中に、代表作『アムールとプシュケ(エロスの接吻で目覚めるプシュケ)』(1787年 - 1793年)も含まれる。カノーヴァの名声はさらに高まり、ロシア宮廷から嬉しい依頼が舞い込んだ。サンクトペテルブルクに来て欲しいというものだった。しかしカノーヴァはこれを辞退した。そのことについて、カノーヴァは友人の手紙にこう書いている。 「 イタリアは私の母国。芸術の国、土壌。私は離れられません。ここで育ったのですから。もし私の乏しい才能が他国で役に立つというのなら、他国もイタリアにとって何か役に立つものであって然るべき。他のどんな国より好まれてると、わざわざイタリアが主張する必要もないですよね? 」 とはいうものの、カノーヴァの多くの傑作が現在サンクトペテルブルクのエルミタージュ博物館にある。 1795年から1797年にかけて、多くの作品が制作された。その中には、以前の作品の複製もいくつかあった。『ヴィーナスとアドニス』(1795年)もその1つで、この作品はナポリに送られた。ところで、フランス革命の衝撃はイタリアにも波紋を起こしていた。1798年、カノーヴァは、ひっそり静かに暮らしたいと、生まれ故郷のポッサーニョに戻り、約1年間隠棲した。そこでカノーヴァはもっぱら絵を描いた。いくらかは絵の知識があったのだ。政変が一時的に落ち着くと、カノーヴァはローマに戻った。しかし、生活の変化のせいだろうか、健康を害し、友人のレッツォニコ上院議員(Prince Rezzonico)と一緒に、静養のためドイツに旅行することにした。おかげで健康は回復し、旅から戻ると、カノーヴァは再び精力的に作品の制作をはじめた。
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