ローマからコンスタンティノープルへの遷都
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:29 UTC 版)
「古代末期のキリスト教」の記事における「ローマからコンスタンティノープルへの遷都」の解説
「コンスタンティノープル#歴史」を参照 皇帝コンスタンティヌス1世のキリスト教政策によってキリスト教は公認されたが、国家の教会化、あるいは教会の国家化であるとしてキリスト教にとって危険であるともいわれ、実際にその子コンスタンティウス2世は皇帝権から教会につよく干渉した。ローマ帝国の属州組織は教会組織の基礎となった。コンスタンティヌス1世はローマの宗教や典礼を重視せず、聖ペトロバジリカ(記念教会堂)を建設し、330年にはトラキアの東端の都市ビュザンティオンをコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)に改名してこれを首都とし、ローマから遷都し、大都市建設を始めた。この遷都によってコンスタンティノープル司教の地位もあがる一方で、ローマ司教は後退していった。 東への遷都は、コンスタンティヌス1世が若い時にディオクレティアヌス帝のニコメディア(現トルコ)宮廷に仕えたためとも、またガリアにいたコンスタンティヌス1世にとってローマはかつて首都があった土地というにすぎなかったし、またコンスタンティヌス1世がローマの元老院の反キリスト教的な空気を嫌ったためともいわれる。
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