ローマから離反の経緯とは? わかりやすく解説

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ローマから離反の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 14:26 UTC 版)

聖ピオ十世会」の記事における「ローマから離反の経緯」の解説

聖ピオ十世会第2バチカン公会議1962年1965年)に伴う変化への反対から生まれた創立者及び中心人物は、アフリカでの宣教活動長年従事したフランス人マルセル・ルフェーブル大司教であり、彼は聖霊修道会総長1962年から1968年まで務めていた。1968年修道会憲章改訂した時に、彼はそれを非カトリック的かつ近代主義的であると捉えて退任した退任後、間もなくローマフランス人神学生彼に接近した彼等伝統的な教義への固執のために迫害されていると語り、どこの保守的な神学校学業修められる助言求めたという。 神学生たちの相談乗っているうちに、彼らをスイス指導するようになった。やがてルフェーブル大司教賛同した司祭たちとともに1970年に「聖ピオ十世会」を設立信徒から寄進受けてスイス南西部エコン神学校設立し今でも同会の本部になっているルフェーブル大司教修道会としての認可求めてローマ教皇庁折衝していたが、同会が第2バチカン公会議改革への批判行っていたことが、まずフランス司教たちから問題視され、やがて教皇庁との関係も悪化していった。1970年11月現地シャリエール司教の仮認可得たものの、1975年には新任司教によって取り消され1976年5月には教皇パウロ6世ルフェーブル大司教を公式に叱責する事態となった教皇による司教の公式な叱責200年ぶりのことであった1988年6月30日ルフェーブル大司教教皇庁警告無視して教皇庁認可なく会所属の4名の司祭司教聖別叙階)した。ブラジルのカンポ・ドス・ゴイタカセスの引退した司教であるアントニオ・デ・カストロ・メイヤーも共同司式者として聖別式(叙階式)に補佐した教皇許可なく司教叙階を行うことは教会法自動破門適用される行為であるため、事態重く見た教皇ヨハネ・パウロ2世使徒書簡エクレジア・デイ」(神の教会)を発布し大司教の無認可叙階非難し公にルフェーブル大司教彼に聖別叙階)された4人の司教並びに共同司式者のカストロ・メイヤー司教破門宣言した

※この「ローマから離反の経緯」の解説は、「聖ピオ十世会」の解説の一部です。
「ローマから離反の経緯」を含む「聖ピオ十世会」の記事については、「聖ピオ十世会」の概要を参照ください。

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