ローマとの戦争と交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:41 UTC 版)
詳細は「ローマ・ペルシア関係」および「パルティア戦争」を参照 北部インドで月氏のクシャーナ朝が成立した結果、パルティアの東部国境の大部分が安定した。この結果、前1世紀半ばのパルティアは主としてローマに対して積極策に出て、西部国境の安全を勝ち取ることに集中した。ミトラダテス2世がアルメニアを征服した翌年、ユーフラテス川でパルティアの外交官オロバズス(英語版)とローマのキリキア属州総督(プロコンスル)ルキウス・コルネリウス・スッラが会談した。この会談で、両者は恐らくユーフラテス川をパルティアとローマの国境とすることに合意した。ただし複数の学者が、スッラはこの条項をローマ本国に伝達する権限しか持っていなかったと主張している。 その後、パルティアはシリアでセレウコス朝のアンティオコス10世(在位:前95年-前92年?)と戦い、彼を殺害した。最末期のセレウコス朝の君主の一人、デメトリオス3世はバロエア(現:アレッポ)の包囲を試みたが、パルティアは現地住民に援軍を送り、デメトリオス3世を撃退した。 ミトラダテス2世の治世の後、パルティアの王権は分裂したように思われる。バビロニアをゴタルゼス1世が、王国の東部をオロデス1世 (ウロード1世、在位:前90年頃-前80年頃)が、それぞれ分割して統治した。この分割統治体制はパルティアを弱体化させ、アルメニア王ティグラネス2世が西部メソポタミアでパルティアの領土を切り取ることを可能とした。この時失われた領土はシナトルケス王(サナトルーク、在位:前78年頃-前71年頃)の治世までパルティアに戻らなかった。 アナトリア地方ではローマとポントス王国の間で戦争が勃発した(第三次ミトラダテス戦争)。ポントス王ミトラダテス6世(在位:前119年-前93年)と同盟を結んでいたアルメニア王ティグラネス2世はローマに対する同盟をパルティアに依頼したが、パルティア王シナトルケスは救援を拒否した。前69年、ローマの将軍ルキウスがアルメニアの首都ティグラノケルタに進軍したため、ポントス王ミトラダテス6世とアルメニア王ティグラネス2世は再びパルティアのプラアテス3世(フラハート3世、在位:前71年-前58年)に援軍を依頼した。しかし、結局プラアテス3世はどちらにも援軍を送ることはなく、ティグラノケルタ陥落の後に、ユーフラテス川がパルティアとローマの国境であることを再確認する協定を結んだ。 この混乱の中でアルメニア王ティグラネス2世の息子である小ティグラネスは父親からの王位簒奪を企んで失敗した。彼はパルティア王プラアテス3世の下へ逃亡し、彼を説得してアルメニアの新たな首都、アルタクシャタ(英語版)に進軍することを決意させた。この進軍とその後の包囲は失敗し、小ティグラネスは今度はローマの将軍ポンペイウスの下へと逃亡した。彼はポンペイウスにアルメニアの道案内をすると約束した。しかし、ティグラネス2世がローマの属王となることを受け入れると、小ティグラネスは人質としてローマに送られた。プラアテス3世はポンペイウスに小ティグラネスを自身の下へ送還するよう要求したが、ポンペイウスは拒否した。この結果、プラアテス3世はゴルデュエネ(英語版)(現:トルコ南東部)への侵攻を開始した。これはローマの執政官(コンスル)ルキウス・アフラニウス(英語版)によって排除されたと伝わる。
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