ローマとビザンティン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 16:34 UTC 版)
エピダムノスはイリュリア王グラウキアスにより紀元前312年に占領された。紀元前230年頃にイリュリア一帯の支配権を握ったテウタもエピダムノス一帯も支配し、周辺の海域で海賊行為を働いたことから、共和政ローマと間でイリュリア戦争が勃発することとなる。2次に渡るイリュリア戦争でローマが完勝したことから、エピダムノスはローマの支配下に入ることとなった。ローマ人はディラキウム(Dyrrachium、デュッラキウム、ドゥラキウムとも。ギリシャ語でΔυρράχιον / Dyrrhachion。以下、ローマ期はデュッラキウムと記載。)と改名した。彼らはエピダムノスという名は不吉だとみなしたのである(ラテン語で失うことや損害を意味するdamnumと音が似ていた)。デュッラキウムの意味は、ギリシャ語では『悪い背骨』か『難しい尾根』となるが、真相は不明である。市近くの崖がせり出すさまを暗示していたようである。その後、デュッラキウムはビザンティウム(後のコンスタンティノープル、現在のイスタンブール)まで続くエグナティア街道の西側の起点となり、ローマの主要軍事・海軍基地として発展することになった。 紀元前49年からのローマ内戦では、デュッラキウム近郊で重要な戦闘が行われた。グナエウス・ポンペイウスら元老院派の兵站基地であったドゥラキウムをガイウス・ユリウス・カエサルを中心とするカエサル派が包囲したものの、ポンペイウスの巧みな用兵によってカエサル軍は一敗地に塗れることとなった。(デュッラキウムの戦い) ローマ支配の元でデュッラキウムは繁栄した。市はテッサロニキとコンスタンティノープルとを結ぶ、イグナティア街道の西の終わりとなった。別のより小さな道は南の都市ブスロトゥム(Buthrotum、現在のブトリント)へ向けて伸びていた。ローマ皇帝アウグストゥスは、アクティウムの海戦にともない自分のローマ軍団の古参兵のためにデュッラキウムを自由都市(en:Civitas libera)とした。 紀元4世紀、デュッラキウムはローマ属州エピルス・ノヴァ(en:Epirus Nova)の首都となった。430年頃、のちの皇帝アナスタシウス1世がここで生まれている。この世紀の終わり頃、デュッラキウムは激しい地震に襲われ、市の防御を破壊された。アナスタシウス1世は市壁を再建し強化して、バルカン半島西部で最も強力な要塞につくりかえた。12mあるという高い壁は厚く、東ローマの歴史家アンナ・コムネナによれば、壁の厚さは4人の騎兵たちが並んで馬に乗ったくらいのものだったという。顕著な古代都市の防御部分は、数世紀に渡って数を減らしてはいるものの、今も残っている。 バルカン半島の残りと同様、ディラキウムと周囲のディラキエンシス・プロヴィンシアエは、民族移動時代に異民族の相当な侵入を受けた。481年には東ゴート王国の王テオドリックに市を包囲され、その後数百年間ブルガリア人の頻繁な攻撃を防いだ。ローマ帝国が衰退すると、市は東ローマ帝国のものになり、引き続き重要港であり続け、帝国と西欧とを結ぶ主要な地であった。
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