ローマと東ローマの時代とは? わかりやすく解説

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ローマと東ローマの時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 20:56 UTC 版)

イピロス」の記事における「ローマと東ローマの時代」の解説

紀元前3世紀になるとイピロス王朝マケドニアへの干渉始めたが、紀元前2世紀には共和政ローマ侵攻にあい、紀元前168年ローマにより占領された。146年にはマケドニア属州一部となり、南部が Epirus Vetus(旧エピルス)、北部が Epirus nova(新エピルス)と呼ばれるようになったイピロス沿岸部ローマ人交易地として繁栄しアドリア海沿岸ビザンティウム(のちのコンスタンティノポリス現在のイスタンブール)とを結ぶエグナティア街道建設紀元前2世紀)によりさらに富を集積することとなった395年ローマ帝国東西分割によって、イピロスコンスタンティノポリス首都とする東ローマ帝国の統治下に入った都市ヨアニナ6世紀ごろに建設されたと考えられている。中世初期にはスラブ人イピロス地方居住するようになった考えられているが、その範囲規模は明確ではない。9世紀から10世紀にかけては第一次ブルガリア帝国領域含まれバシレイオス2世によるブルガリア帝国征服により東ローマ帝国支配取り戻した中世にはアルタヨアニナユダヤ人コミュニティがあった。 1204年第4回十字軍によりコンスタンティノポリス陥落すると、東ローマ皇族ミカエル・アンゲロスは、アイトーリアイピロス占領しアルタ首府とした亡命政権樹立したイピロス専制侯国)。イピロス小アジアニカイア帝国と並ぶ東ローマ勢力拠点となった専制侯国の支配者たちは、現ピンドス山脈以西現在のアルバニア大部分テッサリアマケドニア統治下に置いた。この時代に「イピロス」の地名が、北はドゥラキウム(現アルバニアドゥラス)から南はアンヴラキコス湾に至る海沿い地域全域指し示すようになった1337年には、ニカイア帝国復興させた東ローマ帝国イピロス併合した1348年東ローマ帝国内紛乗じセルビア王国ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンイピロス征服した。これを支えたのがアルバニア人傭兵であり、イピロスにおけるアルバニア人活動記録され最初の例である。東ローマ帝国諸侯国としてヨアニナイピロス専制侯国を再設置することで地域支配回復図ったが、アルバニア人たちが大部分地域支配下収めたアルバニア人対抗したヨアニナギリシャ人たちは、セルビア人のトマ・プレリュボヴィ(1367年1384年)、フィレンツェ人の血を引くエザウ・ブオンデルモンティ(英語版)(1385年1411年)、ケファロニア島貴族カルロ1世トッコ英語版)(1411年1429年)といった歴代外来イピロス専制侯支えカルロ1世トッコアルバニア人諸氏族を下してイピロス統一回復することに成功した。しかし、内紛生じたためにオスマン帝国はこの地を容易に征服することになった1430年ヨアニナ1449年にはアルタ1460年にはアンゲロカストロが陥落し1479年にヴォニツァが陥落したことによって、ヴェネツィア人治めイオニア諸島をのぞくギリシャ本土の「フランク人」(ムスリム側から西欧人を総称する呼称支配終焉迎えた

※この「ローマと東ローマの時代」の解説は、「イピロス」の解説の一部です。
「ローマと東ローマの時代」を含む「イピロス」の記事については、「イピロス」の概要を参照ください。

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