ローマによる征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:50 UTC 版)
前2世紀になるとローマが東地中海全域に覇権を及ぼすようになっていき、ローマは東地中海の海賊を討伐するようになった。特にポントス王国の王ミトリダテス6世との間に第三次ミトリダテス戦争(前75年-前65年)が勃発すると、クレタ島の海賊はミトリダテス6世と奴隷反乱の指導者スパルタクスなどの反ローマ勢力の橋渡しをしようとしたため、この島の制圧はローマにとっての関心事となった。 前74年、ローマの元老院は海賊討伐のため、マルクス・アントニウスに「無制限の命令権(imperium infinitum)」を付与した。彼は前71年にクレタ島への攻撃を決定したが、このローマの遠征は手痛い敗北に終わった。海賊に完敗を喫したマルクス・アントニウスはやむなく講和条約を結んだが、その屈辱的な内容のために元老院はこれを承認しなかった。彼は捕虜となり、その後病死した。ローマ人たちは彼の無能を嘲り、皮肉を込めてクレティクス(クレタ征服者)の渾名をつけた。 結局ローマ人はミトリダテス6世をアルメニアに追いやった後、改めてクレタ島の問題に取り掛かった。ローマは前68年にクレタ人にマルクス・アントニウス・クレティクスに歯向かった人物の引き渡し、捕虜の返還、300人の人質の供出、銀400タラントを要求した。クレタ人がこれを拒否すると、元老院はクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・クレティクスにクレタ島の征服を命じた。メテッルスは都市を1つ1つ攻略するとともに、クレタ人に対して苛烈な対応を行った。このためにクレタ側はメテッルスとの講和を躊躇し、より寛大な条件を求めて別のローマの有力者グナエウス・ポンペイウスに降伏を打診した。ポンペイウスは提案に乗り気であり、メテッルスの行動を制止したが、メテッルスは攻撃を続行した。結局前63年にクレタ人はメテッルスに降伏し、クレタ島はキュレナイカと共にクレタ・キュレナイカ属州(英語版)としてローマ領に組み込まれた。 キケロによればクレタ島がキュレナイカと統合されたのはエジプト(プトレマイオス朝)に対する監視を強化するためだったという。しかし、ローマでオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスが主導権を争う中でエジプトの王クレオパトラ7世と結んだアントニウスは、前38年までにクレタ島の一部を他の東方属州の一部と共にプトレマイオス朝に譲渡した。このことはローマ市民の怒りを呼び、前31年のアクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラ7世がオクタウィアヌスに敗れ去ったことにより、クレタ島は再びクレタ・キュレナイカ属州に統合され、ゴルテュンがこの属州の首都となった。 ローマはクレタ島のコイノンを維持させ、各都市の古い制度を温存した。また、他の属州で行ったのと同じように、クレタ島に神殿や法廷、音楽堂、円形劇場など多数の公共建造物を建設した。都市の統合と再編も進み、かつて57を数えられたポリスは20から25にまで減少し、1世紀の地理学者ストラボンはクレタ島の重要なポリスを3つしか挙げていない。クレタの海賊活動が完全に収まることは無かったが、ローマ支配下でクレタ島の情勢は安定し、慢性的に続いてきた戦争は沈静化した。 その後、キリスト教がローマ帝国で普及すると、クレタ島にも聖パウロによる伝道が行われ、その弟子のティトゥスはゴルテュンの初代主教(司教)となったとされる。しかし、島内のキリスト教の普及は非常にゆっくりしたものであり、聖ティトゥスのバジリカ(聖ティトゥス教会)と呼ばれる大型の聖堂が登場するのは5世紀に入ってからである。
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