ローマと北イタリアの初期バロック建築
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「バロック建築」の記事における「ローマと北イタリアの初期バロック建築」の解説
バロック建築の着想は、一般にミケランジェロの設計したサン・ピエトロ大聖堂の荘厳性や崇高性のなかにはじめて現れると考えられているが、そのデザインは、ほかならぬ彼自身のマニエリスム的な厳格さの中に埋没し、それ以上の展開を見せることはなかった。1520年代のミケランジェロやラファエロ・サンティらの芸術活動のなかに、バロックへの萌芽が見られることはしばしば指摘されている。 17世紀に入ると、武力をも辞さなかった対抗改革の宗教的厳格さは退潮し、異端審問などはローマではほとんど行われなくなった。政治的な重要性が低下するにつれて、芸術によって信者をつなぎ止めるため、ローマ教皇や枢機卿は壮大な教会や宮殿を建設することに熱心なパトロンとなった。バロック建築は 1590年代のローマに始まり、こうした風潮が世間を支配するようになる1630年から1670年にかけて開花していった。 カルロ・マデルノは、1606年にサン・ピエトロ大聖堂の身廊部分とファサードを設計し、1626年にそれを完成するまで同聖堂の主任建築家として、そしてローマの主導的な建築家として活躍した。彼は最初の本格的なバロック建築としてパラッツォ・マッティを設計(1598年)したが、バロック建築史のなかで最も重要なのは、彼が最晩年に設計したパラッツォ・バルベリーニである。北イタリアの別荘に着想を得たプランを持つこの宮殿は、部屋の繋がりも楕円の第二階段もパラーディオの概念に基づくものだが、中庭を持たないH型の平面はそれまでには全く見られない新しい形状であり、後期バロック建築の宮殿建築の発展において重要な意味を持っている。この建築には、ローマ・バロック建築を代表する二人の芸術家、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニとフランチェスコ・ボッロミーニが参加しており、正面ファサードは主にベルニーニが、細部装飾についてはボッロミーニが携わった。 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニは、マデルノ亡き後、ローマの彫刻と建築の第一人者となった。彼はミケランジェロと同じ彫刻家として出発し、絵画を遺し、最も重要な建築を設計し、そしてミケランジェロと並ぶほど重要な芸術家とされる。しかし、両者の芸術的アプローチは全く異なる。ベルニーニは初期の作品では、マルティーノ・ロンギと同じく表現の選択肢を増やし、これを複雑に組み合わせることによって強い印象を与えるようなデザインを用いた。サン・ピエトロ大聖堂内部の天蓋付き祭壇(1624年設計)はこの典型で、ねじれ円柱や相互にかみ合う破風などのダイナミックな構成は、大聖堂内部の広大な空間の中でペテロの墓所を示す効果的な焦点となっている。しかし、これの形態はミケランジロをはじめとするマニエリスム芸術家の好みにはまったく合わないと思われる。 やがて彼は、建築の空間そのものを意識的に構成するようになる。サン・ピエトロ大聖堂のレッタ広場(正面前の台形の広場)、オブリクァ広場(楕円形の広場)、そしてそれを取り囲む列柱廊にもそれは見られるが、より重要な作品はバチカン宮殿のスカラ・レジアである。そこでは敷地のいびつさを逆に利用し、両壁を収斂することによって空間の奥行きを矯正している。 フランチェスコ・ボッロミーニは、すでに初期の作品において旧習を無視したバロック建築の独特な空間を生み出した。サン・カッロ・アッレ・クアトロ・フォンターネ聖堂の内部は、サン・ピエトロ大聖堂のドームを支える主柱に収まるほどの非常に小さな空間だが、初期バロック建築の最も重要な空間構成を持っていると言われている。彼の構築した空間は、どのような要素がどのように組み合わされているのか、一見しただけでは判らない。内部空間と外部空間の複雑な合成は彫塑的で、揺れや歪みという言葉によって修飾される。空間を複合・統合して作り上げていくその造形力はベルニーニよりも強烈だが、それゆえにベルニーニは、ボッロミーニの建築を妄想的であると断じた。さらに、彼は代表作となるサンティーヴォ・アッラ・サピエンツァ教会堂の設計に着手し、バロック建築の嗜好する空間を最も説得力のあるかたちで実現させた。ボッロミーニの建築は特殊なものに見えるが、同時に空間を扱う一般解を提示しており、その経験はやがてドイツのバロック建築に引き継がれた。 ボッロミーニの空間処理方法は、イタリアではその真意をほとんど理解されることのないまま模倣されたが、グァリーノ・グァリーニはボッロミーニの方法をもとに独創的な空間をつくりあげた。ただし、彼の活躍の場はローマでなくてトリノである。また、彼は芸術家であるよりは、修道士、哲学者、そして数学者であった。数学的合理性に基づく空間を複雑に交差させる細部の処理方法は、彼が数学者であることに由来するかもしれないが、それゆえ、彼の建築は直接的な後継者をみなかった。ベルニーニやボッロミーニの造形がローマ的で個性的であるのに対し、サン・ロレンツォ聖堂などグァリーニによる装飾は、やはり個性的ではあるが、よりあか抜けた印象を与える。 ローマと北イタリアの初期バロック建築は、ベルニーニ、ボッロミーニの後、カルノ・ライナルディ、ピエトロ・ダ・コルトーナによってさらに独創的で多様な造形を形成するが、彼らの底流には常に量塊と彫塑性に対する好みが流れていた。しかし、17世紀末にはイタリアの造形力は衰退し、後期のバロックはフランスの影響を受けた古典的なものに移行する。そして、以後、ローマの芸術的地位は一地方並にまで転落し、イタリアが建築芸術を主導する立場に立つことはなくなるのである。
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