ローマと北イタリアの初期バロック建築とは? わかりやすく解説

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ローマと北イタリアの初期バロック建築

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 01:49 UTC 版)

バロック建築」の記事における「ローマと北イタリアの初期バロック建築」の解説

バロック建築着想は、一般にミケランジェロ設計したサン・ピエトロ大聖堂荘厳性や崇高性のなかにはじめて現れる考えられているが、そのデザインは、ほかならぬ自身マニエリスム的な厳格さ中に埋没しそれ以上の展開を見せことはなかった。1520年代ミケランジェロラファエロ・サンティらの芸術活動のなかに、バロックへの萌芽見られることはしばし指摘されている。 17世紀に入ると、武力をも辞さなかった対抗改革宗教的厳格さ退潮し、異端審問などはローマではほとんど行われなくなった政治的な重要性低下するにつれて芸術によって信者つなぎ止めるため、ローマ教皇枢機卿壮大な教会宮殿建設することに熱心なパトロンとなったバロック建築1590年代ローマ始まりこうした風潮世間支配するうになる1630年から1670年にかけて開花していった。 カルロ・マデルノは、1606年サン・ピエトロ大聖堂身廊部分ファサード設計し1626年にそれを完成するまで同聖堂主任建築家として、そしてローマ主導的な建築家として活躍した。彼は最初本格的なバロック建築としてパラッツォ・マッティを設計1598年)したが、バロック建築史のなかで最も重要なのは、彼が最晩年設計したパラッツォ・バルベリーニである。北イタリア別荘着想得たプランを持つこの宮殿は、部屋繋がり楕円第二階段パラーディオ概念に基づくものだが、中庭持たないH型平面それまでには全く見られない新しい形状であり、後期バロック建築宮殿建築発展において重要な意味を持っている。この建築には、ローマ・バロック建築代表する二人芸術家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニフランチェスコ・ボッロミーニ参加しており、正面ファサードは主にベルニーニが、細部装飾についてはボッロミーニが携わったジャン・ロレンツォ・ベルニーニは、マデルノ亡き後ローマ彫刻建築第一人者となった。彼はミケランジェロと同じ彫刻家として出発し絵画を遺し、最も重要な建築設計し、そしてミケランジェロと並ぶほど重要な芸術家とされる。しかし、両者芸術的アプローチは全く異なる。ベルニーニ初期の作品では、マルティーノ・ロンギと同じく表現の選択肢増やし、これを複雑に組み合わせることによって強い印象与えるようなデザイン用いたサン・ピエトロ大聖堂内部天蓋付き祭壇1624年設計)はこの典型で、ねじれ円柱相互にかみ合う破風などのダイナミックな構成は、大聖堂内部広大な空間の中でペテロ墓所を示す効果的な焦点となっている。しかし、これの形態はミケランジロをはじめとするマニエリスム芸術家好みはまった合わない思われる。 やがて彼は、建築空間そのもの意識的に構成するうになるサン・ピエトロ大聖堂レッタ広場正面前の台形広場)、オブリクァ広場楕円形の広場)、そしてそれを取り囲む列柱廊にもそれは見られるが、より重要な作品バチカン宮殿のスカラ・レジアである。そこでは敷地のいびつさを逆に利用し、両壁を収斂することによって空間奥行き矯正している。 フランチェスコ・ボッロミーニは、すでに初期の作品において旧習無視したバロック建築独特な空間生み出したサン・カッロ・アッレ・クアトロ・フォンターネ聖堂内部は、サン・ピエトロ大聖堂ドーム支え主柱に収まるほどの非常に小さな空間だが、初期バロック建築の最も重要な空間構成持っていると言われている。彼の構築した空間は、どのような要素どのように組み合わされているのか、一見しただけでは判らない内部空間外部空間複雑な合成彫塑的で、揺れ歪みという言葉によって修飾される空間複合統合して作り上げていくその造形力はベルニーニよりも強烈だが、それゆえベルニーニは、ボッロミーニの建築妄想的であると断じた。さらに、彼は代表作となるサンティーヴォ・アッラ・サピエンツァ教会堂設計着手しバロック建築嗜好する空間を最も説得力のあるかたちで実現させた。ボッロミーニの建築特殊なもの見えるが、同時に空間を扱う一般解提示しており、その経験はやがてドイツバロック建築引き継がれた。 ボッロミーニの空間処理方法は、イタリアではその真意をほとんど理解されることのないまま模倣されたが、グァリーノ・グァリーニはボッロミーニの方法をもとに独創的な空間つくりあげた。ただし、彼の活躍の場ローマでなくてトリノである。また、彼は芸術家であるよりは、修道士哲学者、そして数学者であった数学的合理性に基づく空間複雑に交差させる細部処理方法は、彼が数学者であることに由来するかもしれないが、それゆえ彼の建築直接的な後継者をみなかった。ベルニーニやボッロミーニの造形ローマ的で個性的であるのに対しサン・ロレンツォ聖堂などグァリーニによる装飾は、やはり個性的ではあるが、よりあか抜け印象与える。 ローマと北イタリアの初期バロック建築は、ベルニーニ、ボッロミーニの後、カルノ・ライナルディ、ピエトロ・ダ・コルトーナによってさらに独創的多様な造形形成するが、彼らの底流には常に量塊と彫塑性に対す好み流れていた。しかし、17世紀末にはイタリア造形力は衰退し後期バロックフランスの影響受けた古典的なものに移行する。そして、以後ローマ芸術的地位は一地方並にまで転落しイタリア建築芸術主導する立場に立つことはなくなるのである

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