ローマとカルタゴの同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 22:02 UTC 版)
「ピュロス戦争」の記事における「ローマとカルタゴの同盟」の解説
ユスティヌスは、既に紀元前279年にはカルタゴがピュロスのシケリア侵攻を懸念していたと書いている。シケリアの西部はカルタゴが支配していたが、東部と南部を支配するギリシア植民都市と対立していたためである。シケリアのギリシア植民都市がピュロスに援助を求めたとの報告もあった。ユスティヌスは、カルタゴ軍の司令官であるマゴがローマに120隻の軍船を伴って派遣され、協力を申し出たが、元老院はこれを拒絶したと書く。カルタゴとしては、ローマを支援することにより、ピュロスのシケリア侵攻を避けられるとの思惑があった。その数日後、マゴは個人的にピュロスを訪問した。カルタゴの人々が平和を求めて来たようであったが、実際にはピュロスのシケリアに対する考えを探るためであった。ユスティヌスは、この出来事はガイウス・ファブリキウスの使節団の派遣と、キネアスのローマ訪問の前であるとしている。 ポリュビオス(紀元前2世紀の歴史家)は、ローマの図書館でローマとカルタゴの一連の条約を見つけている。その4番目のものは、ピュロスに対するためのものであった。その内容は:何れかの国がピュロスに攻められた場合は、もう一方はこれを支援する。何れが支援を必要としていようとも、カルタゴが輸送と戦闘のための船を提供する、しかし兵士の給与はそれぞれの国が支払う。必要があれば、カルタゴは海上でローマを支援するが、水兵を意思に反して上陸させ兵士として使うこことはできない 。リウィウスの『ローマ建国史』では、この条約が締結されたのはアスクルムの戦いの後であるとされている。 実際には両国の協力は一度のみであった。ピュロスがシケリアに遠征している間にローマはカルタゴを支援しなかったし、またピュロスがイタリアに戻ってもカルタゴはローマを支援していない。シケリアのディオドロスによると、ピュロスがイタリアからシケリアに渡る前、カルタゴ船が500名のローマ軍団兵をレギオンに輸送している。彼らはローマ反乱兵が支配するレギオンを包囲した。結局は包囲を解いたが、ピュロスの渡海を阻止するために造船用に準備されていた木材に放火して引き上げた。その後イタリアとシケリアの間のメッシーナ海峡に留まり、ピュロスの渡海の試みを見張っていた。これはレギオンのローマ反乱軍に対する最初の反撃であった。ピュロスがシケリアに去った後、執政官ガイウス・ファブリキウス・ルスキヌスが反乱軍に勝利して、レギオンの回復に成功している。
※この「ローマとカルタゴの同盟」の解説は、「ピュロス戦争」の解説の一部です。
「ローマとカルタゴの同盟」を含む「ピュロス戦争」の記事については、「ピュロス戦争」の概要を参照ください。
- ローマとカルタゴの同盟のページへのリンク