ピュロス
ピュロス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 16:31 UTC 版)
ピュロス(希:Πύρρος、羅:Pyrrhus、紀元前319年 - 紀元前272年)は、古代ギリシアのエピロス王(在位:紀元前307年 - 紀元前302年および紀元前297年 - 紀元前272年)、およびマケドニア王(在位:紀元前286年 - 紀元前284年および紀元前274年 - 紀元前272年)である。ピュッロスあるいはピュルロス、ピュロス1世とも表記される。戦術の天才として名高い。
- 1 ピュロスとは
- 2 ピュロスの概要
- 3 シチリア戦~その後の戦い
ピュロス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/12 09:57 UTC 版)
「アッピウス・クラウディウス・カエクス」の記事における「ピュロス」の解説
紀元前280年より始まったエペイロス王ピュロスとの戦争(ピュロス戦争)では、ヘラクレアの戦いやアスクルムの戦い (紀元前279年)などで負けはしたものの、ピュロスにも犠牲を強いていた。ローマはピュロスと捕虜交換交渉を行ったが、ピュロスもローマ兵が皆逃げずに戦う姿を見て、和平交渉のため副官シネアスを使者として派遣した。元老院で和平について議論されたが、眼病のためしばらく休んでいたカエクスが登院し、諦めないよう演説したという。 この後もローマは粘り強く戦い続け、最終的にベネウェントゥムの戦いでピュロスと引き分けに持ち込み、イタリア半島から撤退させた。奇しくもこのベネウェントゥムの戦いを指揮したのは、アッピウスがその執政官就任に強硬に反対していたプレブス出身のクリウス・デンタトゥスであった。 この叱責のエピソードは、その後「講和は勝利した場合に行い、敗北した場合は結ばない」というローマの伝統の元になったというが、信憑性は低いという指摘もある。
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