執政官就任
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「マルクス・ホラティウス・バルバトゥス」の記事における「執政官就任」の解説
同年、マルクス・ホラティウスとルキウス・ウァレリウスは、その年の残りの期間の執政官に選ばれた。両人はウァレリウス=ホラティウス法(en)を成立させた。この法律は3条から構成され、第1条はプレブス民会での決議であっても、トリブスごとの投票を経ていれば、パトリキにも適応されるというものであった。第2条は十人委員会が中断させていた上告権を回復させるものであり、上告権の及ばない公職の新設を禁じた。第3条は護民官に対する不可侵を再確認したものであった。十人委員会の委員の内、アッピウス・クラウディウスとスプリウス・オッピウス・コルニケンは収監中に自殺、他の8人はローマを追放された。 他方、この混乱を見てアエクイ、ウォルスキ、サビニがローマに対して兵を上げた。マルクス・ホラティウスはサビニに対し、ルキウス・ウァレリウスはウォルスキとアエクイに対処することとなった。十人委員会の間に兵の士気が落ちていたにも関わらず、ルキウス・ウァレリウスは勝利した。マルクス・ホラティウスは当初苦戦したものの、最終的にはサビニに勝利した。 ローマはこの勝利を喜んだが、元老院は凱旋式を認めなかった。しかし、トリブス民会は元老院の意思を無視し、両執政官の凱旋式を認めた。これはローマ史上最初の決定であった。 護民官は自らの再選と、この平民に同情的な執政官二人を続投させ、更に自分たちに有利な状況を作り出そうとしていた。しかしホラティウスやウァレリウスに続投の意思は全くなく、それを確認した護民官選挙の管理者マルクス・ドゥイリウスは、民衆たちの前でもう一度執政官に続投の意思がないことを宣言してもらった。辞職を拒否して悪政を敷いた十人委員会とは違う、と執政官は称賛され、護民官選挙の結果再選したのは10人中5人であったという。
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執政官就任
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「クィントゥス・ポンペイウス・ルフス」の記事における「執政官就任」の解説
紀元前89年末の執政官選挙に、ルフスは立候補した。このとき、ローマはアシア属州を占領したポントス王ミトリダテス6世との戦争を始めていた(第一次ミトリダテス戦争)。紀元前88年の執政官の一人が、ミトリダテスとの戦争の指揮をとることになっていたため、この選挙は特に激烈なものとなった。戦争自体はさほど困難なものとは思われなかったが、指揮官には名声、戦利品、人気が約束されているように思われた。ルフスは同盟市戦争で活躍し、ローマ最有力の家一族であるカエキリウス・メテッルス家の支援を得ていた、スッラと組んで選挙に臨んだ。これに先立ち、この同盟関係を強化するために、ルフスの息子とスッラの娘が結婚していた(紀元前90年)。 他の立候補者たちの中には、現役執政官のグナエウス・ポンペイウス・ストラボ、既に6回執政官を務めたガイウス・マリウスもいたとされている。ただし、ストラボの立候補は間違いである可能性が大きく、マリウスに関してはこれを事実とみる研究者と間違いと見る研究者に分かれる。他の立候補者にはガイウス・ユリウス・カエサル・ストラボ・ウォピスクスがいた。彼はまだ法務官も経験していなかったが、兄である前年の執政官ルキウス・ユリウス・カエサルのほか、クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス(紀元前102年執政官)、マルクス・アントニウス・オラトル(紀元前99年執政官)の支援を受けていた。 選挙の実施は通常より遅れ、投票は紀元前88年の初めに行われた。二人の護民官プブリウス・スルキピウスとプブリウス・アンティスティウスが、法務官の経験なしに執政官になることは認められないとしてカエサル・ストラボの立候補に反対した。ストラボ・ウォピスクスにも護民官たちにも多数の支持者があり、街頭衝突まで起こった。結局カエサル・ストラボは立候補したものの敗れ、スッラとルフスが当選した。 スルキピウスがカエサル・ストラボの立候補を阻止しようとしたのは、誰のためであったかに関して、古代の資料は語らない。ただし、キケロの『友情について』は、ルフスとスルキピウスの関係が破綻したことに言及している。この破綻は驚きをもたらしたが、その瞬間からスルキピウスはルフスを憎むようになった。 この件に関しては歴史学上の論争となっている。多くの歴史学者は、スルキピウスが選挙において友人であるルフスを支持したと考えている。A. キブニーはドルスス「派」が分裂したあと、スルキピウスはスッラとルフスが率いる政治グループに参加したとしている。スルキピウスはこの二人が執政官選挙で当選することを助け、その見返りとしてドルススの政策を継続することを期待した。しかしこれは拒否され、スルキピウスは二人との同盟関係を破棄して、スッラの政敵である大マリウスとの関係修復に乗り出した。退役軍人による民会での支持と引き換えに、マリウスにミトリダテス戦争の指揮を委ねる密約を結んだのである。スルキピウスにとって、二人の執政官との決別は元老院との敵対に繋がり、民衆派への転向を意味していた。E. ベディアンによると、執政官と元老院がスルキピウスの法案を承認することを拒否した後、彼はマリウスと同盟を結んだ。 一方で、スルキピウスは執政官選挙前からマリウス派に転向していたとの説もある。彼はルフスとの友人関係のためではなく、ウィッリウス法の原則を守るためにカエサル・ストラボと戦ったに過ぎない。スルキピウスの関心事は、マリウスにミトリダテス戦争の指揮権を与えることであり、ローマ内部の政治問題には関心がなかった。
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執政官就任
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「グナエウス・ポンペイウス」の記事における「執政官就任」の解説
セルトリウスの反乱が鎮圧されてから数カ月間、ポンペイウスはヒスパニアの統治体制再構築に乗り出して、ポンペイウスの施策が公平であったこともあり、ヒスパニア住民から高い支持を得ることとなった。これにより、ヒスパニアはポンペイウスの有力な勢力圏の一つになった。 ポンペイウスがヒスパニアで戦っていた最中の紀元前74年、第三次奴隷戦争が勃発しルキウス・ゲッリウス・プブリコラらが鎮圧に当ったものの、奴隷側の首謀者であったスパルタクスの巧みな用兵もあって長期化していた。紀元前71年、スッラの部将だったマルクス・リキニウス・クラッススがルカニアでスパルタクスを討ち取って反乱軍は壊滅状態となったが、ポンペイウスはこの時に軍を率いてガリアなど北部へ逃亡を図った反乱軍の残党を粉砕した。ポンペイウスはクラッススに先んじて元老院へ「この戦いを終わらせたのは私である」と報告し、ローマ市民もこれを認めた。これによって第三次奴隷戦争での武勲を横取りされた格好となったクラッススは、ポンペイウスの高い人気への嫉妬も重なって激しい敵愾心を持つこととなった。 ともかく、セルトリウスの反乱及び第三次奴隷戦争での武勲によって、ローマ市民から絶大な支持を獲得したポンペイウスは紀元前71年にコンスル(43歳以上にのみ就任資格がある)への立候補及び凱旋式挙行等を認めることを元老院へ要求。また、ルビコン川まで到達したにもかかわらず、軍団を解散せず、保持し続けることで圧力を掛けた。元老院議員の資格すら持たないポンペイウスのこの要求に元老院は難色を示したものの、ポンペイウスに対抗する力を持つクラッススがポンペイウスへの嫉妬から自らもコンスルへ立候補する意志を表明したことで、元老院の思惑は外れることとなった。この際にクラッススとポンペイウスの間で協定が結ばれたともされ、紀元前70年にポンペイウスは選挙で圧倒的な支持を受けて、クラッススと共に35歳でコンスルに選出された。 執政官就任時期に、プラエトルであったルキウス・アウレリウス・コッタが起草した、裁判陪審員を元老院議員、エクィテス、恐らくトリブスの有力者であるトリブニ・アエラリイの3階級から同数選出する「アウレリウス法」が可決され、スッラのコルネリウス法で縮小されていた護民官の拒否権などの権限を戻すことも決定した。ポンペイウスはコンスルを退任した翌紀元前69年及び翌々年の紀元前68年はプロコンスルとして属州総督の肩書きを持ちながらローマで過ごした(本来は属州へ赴任する必要がある)。
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執政官就任
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「ルキウス・リキニウス・ルクッルス (紀元前151年の執政官)」の記事における「執政官就任」の解説
ウィッリウス法の規定(法務官から執政官まで最低3年開ける)から逆算して、ルクッルスは紀元前154年以前に法務官に就任したはずである。しかし、実際に現存する資料で確認できるのは紀元前151年に執政官に就任したときである。同僚のパトリキ(執政官は)アウルス・ポストゥミウス・アルビヌスであった。 この頃、ローマはヒスパニアのケルティベリア人と大規模な戦争を繰り広げていた。紀元前152年、ヒスパニア・キテリオルの担当となった執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスはケルティベリアと妥協的な講和条約を結んだが、元老院はこれを不服として批准せず、マルケッルスに戦闘を継続するように命じた。しかし、マルケッルスがこの命令に従わず、再び交渉を行っていることが分かったため、元老院は彼にプロコンスル(前執政官)の資格を与えず、新しい執政官を派遣することとした。派遣される執政官がどのようにして決定されたかは不明である。ドイツの歴史学はG.サイモンは、執政官本人に選択権があったと考えている。くじ引きでも良いし、あるいは話し合いでも良い。結果として、ルクッルスがヒスパニア・キテリオルを担当することとなったが、これは彼にとって望むところであった。 任地に赴くに当たり、ルクッルスは増援軍を編成する必要があったが、極めて大きな困難にぶつかった。既にケルティベリア人の精強さと、ローマ軍が何度も敗北したことは知れ渡っており、市民はあらゆる手段を使って徴兵から逃れようとしたのだ。ポリュビオスは、「若者たちが兵役を拒否するための口実を探したことは恥ずべきことであり、卑怯で弁護のしようがない」としている。軍の幕僚すらも、通常は各ポジションに複数の応募があるのだが、十分に確保できないという有様だった。 このような状況のかな、ルクッルスとアルビヌス(彼も徴兵に協力していた)は告訴された。徴兵された兵の役割分担が恣意的で問題があるというのが理由であった。この起訴は民会でなされ、両執政官は一時的にではあるが逮捕された。この危機を打開するため、兵の配属はくじ引きによって決定することとなった。この苦境を救ったのは、若いパトリキであるスキピオ・アエミリアヌス(この時点ではクアエストル(財務官)経験者に過ぎなかった)の行動であった。アエミリアヌスは自分がレガトゥス(軍団副司令官)あるいはトリブヌス・ミリトゥム(高級幕僚)としてヒスパニアに出征する準備ができていると宣言したが、これがきっかけで高貴な家の若者達が志願してきたのだ。
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