執政官就任とは? わかりやすく解説

執政官就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 23:22 UTC 版)

マルクス・ホラティウス・バルバトゥス」の記事における「執政官就任」の解説

同年、マルクス・ホラティウスとルキウス・ウァレリウスは、その年の残りの期間の執政官選ばれた。両人ウァレリウスホラティウス法(en)を成立させた。この法律3条から構成され第1条プレブス民会での決議であってもトリブスごとの投票経ていれば、パトリキにも適応されるというものであった第2条十人委員会中断させていた上告回復させるものであり、上告及ばない公職新設禁じた第3条護民官対す不可侵再確認したものであった十人委員会委員の内、アッピウス・クラウディウスとスプリウス・オッピウス・コルニケンは収監中に自殺、他の8人はローマ追放された。 他方、この混乱見てアエクイ、ウォルスキ、サビニがローマに対して兵を上げた。マルクス・ホラティウスはサビニに対し、ルキウス・ウァレリウスはウォルスキとアエクイに対処することとなった十人委員会の間に兵の士気落ちていたにも関わらず、ルキウス・ウァレリウスは勝利した。マルクス・ホラティウスは当初苦戦したものの、最終的にはサビニに勝利したローマはこの勝利を喜んだが、元老院凱旋式認めなかった。しかし、トリブス民会元老院意思無視し、両執政官凱旋式認めた。これはローマ史上最初の決定であった護民官は自らの再選と、この平民同情的な執政官二人続投させ、更に自分たちに有利な状況作り出そうとしていた。しかしホラティウスウァレリウス続投意思は全くなく、それを確認した護民官選挙管理者マルクス・ドゥイリウスは、民衆たちの前でもう一度執政官続投意思がないことを宣言してもらった辞職拒否して悪政敷いた十人委員会とは違う、と執政官称賛され護民官選挙の結果再選したのは10人中5人であったという。

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執政官就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 05:49 UTC 版)

クィントゥス・ポンペイウス・ルフス」の記事における「執政官就任」の解説

紀元前89年末の執政官選挙に、ルフス立候補した。このとき、ローマアシア属州占領したポントスミトリダテス6世との戦争始めていた(第一次ミトリダテス戦争)。紀元前88年執政官一人が、ミトリダテスとの戦争指揮をとることになっていたため、この選挙は特に激烈なものとなった戦争自体はさほど困難なものとは思われなかったが、指揮官には名声戦利品人気約束されているように思われた。ルフス同盟市戦争活躍しローマ最有力の家一族であるカエキリウス・メテッルス家支援得ていた、スッラ組んで選挙臨んだ。これに先立ち、この同盟関係強化するために、ルフス息子スッラの娘が結婚していた(紀元前90年)。 他の立候補者たちの中には現役執政官グナエウス・ポンペイウス・ストラボ、既に6回執政官務めたガイウス・マリウスもいたとされている。ただし、ストラボ立候補間違いである可能性大きくマリウスに関してはこれを事実とみる研究者間違いと見る研究者分かれる。他の立候補者にはガイウス・ユリウス・カエサル・ストラボ・ウォピスクスがいた。彼はまだ法務官経験していなかったが、兄である前年執政官ルキウス・ユリウス・カエサルのほか、クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス紀元前102年執政官)、マルクス・アントニウス・オラトル紀元前99年執政官)の支援受けていた。 選挙の実施通常より遅れ、投票紀元前88年初めに行われた二人護民官プブリウス・スルキピウスとプブリウス・アンティスティウスが、法務官経験なしに執政官になることは認められないとしてカエサル・ストラボの立候補反対した。ストラボ・ウォピスクスにも護民官たちにも多数支持者があり、街頭衝突まで起こった結局カエサル・ストラボは立候補したものの敗れスッラルフス当選した。 スルキピウスがカエサル・ストラボの立候補阻止しようとしたのは、誰のためであったに関して古代の資料語らない。ただし、キケロの『友情について』は、ルフスとスルキピウスの関係が破綻したことに言及している。この破綻驚きもたらしたが、その瞬間からスルキピウスはルフスを憎むようになった。 この件に関して歴史学上の論争となっている。多く歴史学者は、スルキピウスが選挙において友人であるルフス支持した考えている。A. キブニーはドルスス「派」が分裂したあと、スルキピウスはスッラルフス率い政治グループ参加したとしている。スルキピウスはこの二人執政官選挙当選することを助け、その見返りとしてドルスス政策継続することを期待した。しかしこれは拒否され、スルキピウスは二人との同盟関係破棄してスッラ政敵である大マリウスとの関係修復乗り出した退役軍人による民会での支持引き換えに、マリウスミトリダテス戦争指揮委ねる密約結んだのである。スルキピウスにとって、二人執政官との決別元老院との敵対繋がり民衆派への転向意味していた。E. ベディアンによると、執政官元老院がスルキピウスの法案承認することを拒否した後、彼はマリウス同盟結んだ一方で、スルキピウスは執政官選挙前からマリウス派に転向していたとの説もある。彼はルフスとの友人関係のためではなく、ウィッリウス法の原則を守るためにカエサル・ストラボと戦ったに過ぎない。スルキピウスの関心事は、マリウスミトリダテス戦争指揮権与えることであり、ローマ内部政治問題には関心がなかった。

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執政官就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:47 UTC 版)

グナエウス・ポンペイウス」の記事における「執政官就任」の解説

セルトリウスの反乱鎮圧されてから数カ月間、ポンペイウスヒスパニア統治体制再構築乗り出してポンペイウス施策が公平であったこともあり、ヒスパニア住民から高い支持を得ることとなった。これにより、ヒスパニアポンペイウス有力な勢力圏一つになったポンペイウスヒスパニア戦っていた最中紀元前74年第三次奴隷戦争勃発しルキウス・ゲッリウス・プブリコラらが鎮圧に当ったものの、奴隷側の首謀者であったスパルタクス巧み用兵もあって長期化していた。紀元前71年スッラ部将だったマルクス・リキニウス・クラッススルカニアスパルタクス討ち取って反乱軍壊滅状態となったが、ポンペイウスはこの時に軍を率いてガリアなど北部逃亡図った反乱軍残党粉砕したポンペイウスクラッスス先んじて元老院へ「この戦いを終わらせたのは私である」と報告しローマ市民もこれを認めた。これによって第三次奴隷戦争での武勲横取りされ格好となったクラッススは、ポンペイウス高い人気への嫉妬重なって激し敵愾心を持つこととなった。 ともかく、セルトリウスの反乱及び第三次奴隷戦争での武勲によって、ローマ市民から絶大な支持獲得したポンペイウス紀元前71年コンスル43以上にのみ就任資格がある)への立候補及び凱旋式挙行等を認めることを元老院要求また、ルビコン川まで到達したにもかかわらず軍団解散せず、保持し続けることで圧力を掛けた。元老院議員資格すら持たないポンペイウスのこの要求元老院難色示したものの、ポンペイウス対抗する力を持つクラッススポンペイウスへの嫉妬から自らもコンスル立候補する意志表明したことで、元老院思惑外れることとなったこの際クラッススポンペイウスの間で協定結ばれたともされ紀元前70年ポンペイウス選挙圧倒的な支持受けてクラッススと共に35歳コンスル選出された。 執政官就任時期に、プラエトルであったルキウス・アウレリウス・コッタ起草した裁判陪審員元老院議員エクィテス、恐らくトリブス有力者であるトリブニ・アエラリイの3階級から同数選出するアウレリウス法」が可決されスッラコルネリウス法縮小されていた護民官拒否権などの権限を戻すことも決定したポンペイウスコンスル退任した紀元前69年及び翌々年紀元前68年プロコンスルとして属州総督肩書き持ちながらローマで過ごした(本来は属州赴任する必要がある)。

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執政官就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/13 00:33 UTC 版)

ルキウス・リキニウス・ルクッルス (紀元前151年の執政官)」の記事における「執政官就任」の解説

ウィッリウス法の規定法務官から執政官まで最低3年開ける)から逆算して、ルクッルス紀元前154年以前法務官就任したはずである。しかし、実際に現存する資料確認できるのは紀元前151年執政官就任したときである。同僚パトリキ執政官は)アウルス・ポストゥミウス・アルビヌスであったこの頃ローマヒスパニアケルティベリア人大規模な戦争繰り広げていた。紀元前152年ヒスパニア・キテリオル担当となった執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスケルティベリア妥協的な講和条約結んだが、元老院はこれを不服として批准せず、マルケッルス戦闘継続するように命じた。しかし、マルケッルスがこの命令従わず、再び交渉行っていることが分かったため、元老院彼にプロコンスル前執政官)の資格与えず新し執政官派遣することとした。派遣される執政官どのようにして決定されたかは不明である。ドイツの歴史学はG.サイモンは、執政官本人選択権があったと考えている。くじ引きでも良いし、あるいは話し合いでも良い結果としてルクッルスヒスパニア・キテリオル担当することとなったが、これは彼にとって望むところであった任地赴くに当たり、ルクッルス増援軍を編成する必要があったが、極めて大きな困難にぶつかった。既にケルティベリア人精強さと、ローマ軍何度も敗北したことは知れ渡っており、市民あらゆる手段使って徴兵から逃れようとしたのだ。ポリュビオスは、「若者たち兵役拒否するための口実探したことは恥ずべきことであり、卑怯で弁護しようがない」としている。軍の幕僚すらも、通常各ポジション複数応募があるのだが、十分に確保できないという有様だった。 このような状況のかな、ルクッルスアルビヌス(彼も徴兵協力していた)は告訴された。徴兵された兵の役割分担恣意的問題があるというのが理由であった。この起訴民会でなされ、両執政官一時的にではあるが逮捕された。この危機打開するため、兵の配属くじ引きによって決定することとなった。この苦境救ったのは、若いパトリキであるスキピオ・アエミリアヌス(この時点ではクアエストル財務官経験者に過ぎなかった)の行動であったアエミリアヌス自分レガトゥス軍団副司令官)あるいはトリブヌス・ミリトゥム(高級幕僚)としてヒスパニア出征する準備ができていると宣言したが、これがきっかけ高貴な家の若者達が志願してきたのだ。

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