執政官就任とマルクス・リウィウス・ドルススとの対立
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「ルキウス・マルキウス・ピリップス (紀元前91年の執政官)」の記事における「執政官就任とマルクス・リウィウス・ドルススとの対立」の解説
ピリップスが執政官を務めた年(紀元前91年)の主な出来事には、護民官マルクス・リウィウス・ドルススの改革がある。ドルススはオプティマテス(門閥派)に属しており、騎士階級の権力強化に元老院に代わって対抗するものであったと思われる。当時権力濫用に関する法廷は、騎士階級が支配しており、プブリウス・ルティリウス・ルフスに冤罪を着せてローマから追放し、さらには元老院筆頭であるスカウルスに対する攻撃も行っていた。これに対してドルススは著名な元老院議員からの支援を受けていた。スカウルスのほか、当時最高の弁論家とされたルキウス・リキニウス・クラッスス(紀元前95年執政官)、クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ・ポンティフェクス(紀元前95年執政官)、さらにマルクス・アントニウス・オラトル(紀元前99年執政官)や、この年のプラエトル・ウルバヌス(首都担当法務官)であったクィントゥス・ポンペイウス・ルフス等が含まれる。さらにドルススを支持した若い政治家にはガイウス・ユリウス・カエサル・ストラボ・ウォピスクス(紀元前90年上級按察官)、プブリウス・スルキピウス(紀元前88年護民官)、ガイウス・アウレリウス・コッタ(紀元前75年執政官)、ルキウス・ムンミウス(紀元前90年護民官)等がいた。 ドルススの改革は、全ての階級を満足させようとするものであった。元老院は裁判の権利を騎士階級から取り戻し、騎士階級は元老院に300議席を持つ、一般平民に対しては土地と穀物の分配を行う(あるいはパンの価格を下げる)。しかし、どのグループにも反対するものがおり、反ドルススで結束した。特に、ピリップスを筆頭とする元老院議員の多くも改革に反対した。ピリップスを告訴したことがあるカエピオも元老院側に回った。歴史学者E. ベディアンは、紀元前100年代に最も影響力のあった政治家であるガイウス・マリウスが、両者の背後にいることを示唆している。 主な論争は民会で繰り広げられた。ドルススは全ての提案を組み合わせた法案を提出したが、ピリップスは反対した。それぞれのグループは過激な行動をとった。ドルススはタルペーイアの岩から突き落とすぞとカエピオを脅し、ピリップスに対しては暴力まで使った。 彼の法案に異議を唱えた執政官(ピリップス)に対して、ドルススは民会の中で首を強く絞め、結果大量の鼻血が出た。これを見たドルススは、執政官の贅沢ぶりを揶揄し、まるでマグロが潮を噴いてるようだと言った。 アウレリウス・ウィクトル『共和政ローマ偉人伝』、LXVI, 9. ただし、フロルスはピリップスの首を締めたのはドルススではなくその補佐官としている。 このような反対にも関わらず、ドルススの法案は可決された。対するピリップスは、元老院に対してこの法律の取消を要求した。その理由は、採択に暴力が用いられたこと、および本来異なる法案を一つにまとめて新しい法案とすることは禁止されていること(紀元前98年のカエキリウス・ディディウス法)、であった。しかしピリップスは元老院では決定的な支持者を得ることができず、このため民会でセンセーショナルな発言を行った。すなわち、「執政官として、現在の元老院では共和国を統治することができないので、より合理的な国家評議会を設立する必要がある」と述べたのである。 翌日(9月13日)、ドルススは元老院を招集して状況に関する議論を行った。ドルススは、ピリップスが民衆の前で元老院議員を攻撃したと述べた。ドルススはクラッススに支持されていた。クラッススは「元老院の不幸と、執政官に支持されていない状態を嘆いた。その権威は、まるで無法者であるかのように執政官に引き裂かれた。執政官の役割は、元老院に対して良き親や信頼できる後見人の役割を果たすことだ。しかし、共和国に多大な損害を与えてきた人物が、元老院を不要というのは驚くべきことではない」と述べた。 これを聞いたピリップスは自制心を失い、クラッススにインペリウムの懲罰権を行使すると脅した(この措置は通常、会議を欠席した元老院議員に適用された。懲罰権には質を差し出す必要があった)。クラッススは、自分を元老院議員として認めない者を執政官として認めないと答え、後に有名になった言葉を口にした。 貴殿は、これまで元老院の権威を質に取って、人々の前で散々踏みにじってきておきながら、今更私一人の質ごときで私が怯えると思うのか!私を罰したければ、これっぽっちの質などではなく、私の舌を切るべきなのだ!たとえ舌を切り取られ、 息を吐くことしか出来なくなったとしても、私は自由な権利を行使し、貴殿の恣意性に反論し続けるであろう。 キケロ『弁論家について』、III, 1.4 元老院議員はクラッススの演説に衝撃を受け(後にキケロはこの演説を最高のものと認めた)全会一致で次の決定をした。「ローマ市民は、元老院が常に共和国の利益のために献身していることを疑ってはならない。」もちろんこれはピリップスの発言に対するものであった。しかし、演説に全力を使ったためか、クラッススは演説を終えた直後に体調を崩し、9日後に死去した。クラッススの死去は、それまでの経過よりもはるかに影響が大きかった。強力な支持者を失ったドルスス「派」は明らかに弱体化した。さらに、ローマ市民権を求めていた同盟都市の市民と、ドルススの関係に関する情報も出てきた。 話は春に戻るが、アルバ山の祭りの際に、ソキイ(ローマの同盟都市)が、ピリップスとカエサルの両執政官を生贄として神に捧げようとする企てがあることを、ドルススはピリップスに伝えていた。これがドルススに疑惑が向けられるきっかけとなった。後に明らかになったことは、全同盟都市の市民がドルススに忠誠を誓い、もし彼らがローマ市民権を得ることに成功した場合には、ドルススを最大の恩人とみなすことに同意しているということである。この忠誠の文面を自分の手に取り、元老院議員たちに読み上げたのは、ピリップスであったと推測されている。一人に護民官の手に巨大な力が集中するという見通しに怯えた人々は、カエキリウス・ディディウス法に基づいて、ドルススの法案が無効であると宣言した。その直後にドルススは殺害された。犯人は不明で逮捕されることはなかった。裏にいたのはピリップスだとの噂が広まった。
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