執政官就任と最期
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「ガイウス・ノルバヌス」の記事における「執政官就任と最期」の解説
紀元前80年代半ば、イタリア本国とローマ西部の属州はマリウス派(民衆派)が支配していた。紀元前84年、マリウス派はスッラのイタリア上陸に備えていた。この年の初めに、4度目の執政官を務めていたルキウス・コルネリウス・キンナは、兵士の反乱により殺害されていた。キンナの死後に単独で執政官を務めていたグナエウス・パピリウス・カルボは、翌年の執政官に彼と妥協できる人物を選んだ。一人は名門パトリキのルキウス・コルネリウス・スキピオ・アシアティクスで、もう一人が「新市民」の代表であるノルバヌスであった。このときノルバヌスは既に60歳前後であった。 スッラはイタリアに上陸し、紀元前83年5月に新たな内戦が始まった。このとき、スッラには実戦で鍛えられてはいるものの3-4万人の兵士しか持っていなかった。一方、スキピオとノルバヌスは合計18-20万人の兵士を率いていた。しかし、理由は不明だが両執政官は別々に行動し、さらに、海岸を守るために必要な措置を講じなかった。その結果、スッラはブルンディシウムに抵抗なしに上陸してカンパニアに進撃した。しかしアッピア街道とラティーナ街道が交わる場所で(カプア近郊)、ノルバヌスが待ち構えていた。スッラは和平交渉のために軍使を送ったが、ティトゥス・リウィウスによれば「虐待された」。このため両軍は戦闘に入ったが、ティファタ山での最初の戦闘でノルバヌス軍は敗北した。古代の資料によれば、ノルバヌス軍の6,000-7,000が戦死し、6,000が捕虜となったのに対し、スッラ側の戦死者は70人もしくは120人としているが、これは明らかに誇張であろう。ノルバヌスはカプアに退却した。 この後直ぐに、スキピオ・アシアティクス隷下の兵士達がスッラ側に寝返った。その前にスキピオはノルバヌスに対してスッラとの和平を模索するための軍使を送ったが、ノルバヌスは返答をしなかった。スキピオはスッラとの和平交渉中に寝返り工作を受けており、アッピアノスによると、ノルバヌスも欺瞞工作の犠牲になることを恐れていた。 翌年、ノルバヌスはプロコンスル(前執政官)としてインペリウム(軍事指揮権)を維持し、北イタリアを担当した。しかし、ファウェンティアの戦いでスッラ軍の将軍の一人であるクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスに大敗した。9,000 - 10,000が戦死し、さらに6,000がスッラ側に寝返った。ノルバヌスには数千人の兵士しかおらず、アリミヌムに籠城した。この敗北の後、マリウス派の北部戦線は崩壊した。アリミニウム現地軍の指揮官であったプブリウス・アルビオノウァスは、ローマ軍幹部を晩餐に招き、殺害した後にスッラ派に加わった。ノルバヌスは晩餐に行かなかったために生き残った。アリミニムの住民もスッラ派についた。ノルバヌスは再起を信じてロードス島に逃げた。 戦争に勝利したスッラは、国家の敵リストに小マリウス、ノルバヌス、セルトリウス、スキピオ、グナエウス・パピリウス・カルボの名前を挙げた。ロードス政府は、ノルバヌスを引き渡すように要求された。これを知ったノルバヌスは、街の広場で自決した。別の説によれば、既にノルバヌスは拘束されていたが、自決することができた。
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執政官就任と最期
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「グナエウス・オクタウィウス (紀元前87年の執政官)」の記事における「執政官就任と最期」の解説
紀元前88年末、オクタウィウスは執政官選挙に立候補する。この投票は、ローマ史上初の内戦の後に行われた、ルキウス・コルネリウス・スッラは、ガイウス・マリウスと護民官プブリウス・スルキピウスとローマで戦い、スルキピウスは死亡、マリウスはアフリカ属州に逃れた。ローマはスッラに占領された。スッラはプブリウス・セルウィリウス・ウァティアを支持したが、市民はスッラに敵意を抱いていた。このため、オクタウィウスは当選することができた。同僚執政官はパトリキ(貴族)のルキウス・コルネリウス・キンナであった。おそらくこの時点では、二人共にローマの政治闘争では中立であったと思われる。 スッラはすぐにミトリダテス6世との戦争に出発した。出征する前に、彼はキンナから「スッラに対して好意的態度を維持する」という成約を得たことが知られている。古代の資料には、これに関連するオクタウィウスの記述はない。しかし、キンナにのみそのような誓約をさせることは、余りに屈辱的であるため、スッラは双方の執政官から同様の誓約を得たとの説もある。何れにせよ、キンナはこの誓約を破った。執政官に就任してからしばらくの後、キンナはスルキピウスの法案を復活させ、新市民を全てのトリブスの何れかに所属させた(それまでは特定のトリブスに所属することとなっていたが、この処置で新市民は従来のローマ市民と完全に同一の権利を持つこととなる)。この行為は、当然ではあるがスルキピウスを支持していたマリウス派とキンナが同盟したことを意味する。続いて成立させた法案は、マリウスとその支持者のローマへの帰還を認めることであった。 オクタウィウスはこの法案に反対したが、大多数の庶民だけでなく多くのノビレスの支持を得ていた。護民官は法案に対して拒否権を行使したが、キンナは多数の新市民をローマに呼び寄せ、拒否権を取り消させた。元老院はセナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム(元老院最終布告)を出し、オクタウィウスの支持者がフォルムを占拠していたキンナの支持者を攻撃したとも言われる。アッピアノスはキンナの支持者のほうが数は多かったが、勇気にかけていたため戦いに敗れたとする。オクタウィウスの支持者は大虐殺を行い、約1万人が殺害された。キンナはローマから逃走した。元老院はキンナを解任し、ルキウス・コルネリウス・メルラが補充執政官に選出された。 一方でキンナはローマ近くの同盟都市やカンパニアのノラを包囲していたローマ正規軍の支援を受けることができた。新たな内戦が開始された。キンナ派は対元老院、オクタウィウス、メルラで団結した。マリウスは亡命先から戻り、サムニウム人もこれに加わった。結果、ローマは敵軍に囲まれることとなった。オクタウィウスとメルラはローマの防備を強化し、兵士に武器を渡した。加えて前執政官として出征していたグナエウス・ポンペイウス・ストラボとクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスを呼び戻した。 それでも、ローマの防衛体制は極めて不十分であった。プルタルコスによると、オクタウィウスは「経験不足ではなく、非常時にも関わらず法律を遵守しようとしたために、機会を逃してしまった。例えば、多くの人々が奴隷を開放して兵士とすることを提言したが、彼はこれを拒否した」。ストラボは、ローマ近くに駐屯していたが、伝染病で多くの兵と共に病死した(プルタルコスはストラボは雷に打たれて死んだとする)。生存者はピウスの軍に組み入れられることを望んだが、ピウスはオクタウィウスに従うように助言した。するとこれら兵士は敵方につくことをした。ピウスもキンナと協定を結んでイタリアを離れた。元老院は結局マリウスとキンナに降伏することとした。 オクタウィウスはローマから脱出することを勧められたがこれを拒否した。彼はヤニクルムの丘の上で敵を待っていた。キンナはガイウス・マルキウス・ケンソリヌスを騎兵とともに派遣した。ケンソリヌスはオクタウィウスを殺害し、キンナにその首級を渡した。オクタウィウスの首級はフォルムの演壇上にさらされた。続いて殺害された他の元老院議員の首級も並べられた。
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