執政官就任と最期とは? わかりやすく解説

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執政官就任と最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 08:29 UTC 版)

ガイウス・ノルバヌス」の記事における「執政官就任と最期」の解説

紀元前80年代半ばイタリア本国ローマ西部属州マリウス派(民衆派)が支配していた。紀元前84年マリウス派はスッライタリア上陸備えていた。この年初めに4度目執政官務めていたルキウス・コルネリウス・キンナは、兵士反乱により殺害されていた。キンナ死後単独執政官務めていたグナエウス・パピリウス・カルボは、翌年執政官に彼と妥協できる人物選んだ一人名門パトリキルキウス・コルネリウス・スキピオ・アシアティクスで、もう一人が「新市民」の代表であるノルバヌスであった。このときノルバヌスは既に60歳前後であったスッライタリア上陸し紀元前83年5月新たな内戦始まった。このとき、スッラには実戦鍛えられてはいるものの3-4万人兵士しか持っていなかった。一方スキピオとノルバヌスは合計18-20万人兵士率いていた。しかし、理由不明だが両執政官別々に行動し、さらに、海岸を守るために必要な措置講じなかった。その結果スッラブルンディシウム抵抗なしに上陸してカンパニア進撃した。しかしアッピア街道ラティーナ街道が交わる場所で(カプア近郊)、ノルバヌスが待ち構えていた。スッラ和平交渉のために軍使送ったが、ティトゥス・リウィウスによれば虐待された」。このため両軍戦闘入ったが、ティファタ山での最初の戦闘でノルバヌス軍は敗北した古代の資料によれば、ノルバヌス軍の6,000-7,000戦死し、6,000捕虜となったのに対しスッラ側の戦死者70もしくは120人としているが、これは明らかに誇張であろう。ノルバヌスはカプア退却したこの後直ぐにスキピオ・アシアティクス隷下兵士達スッラ側に寝返った。その前にスキピオはノルバヌスに対してスッラとの和平模索するための軍使送ったが、ノルバヌスは返答をしなかった。スキピオスッラとの和平交渉中に寝返り工作受けており、アッピアノスによると、ノルバヌスも欺瞞工作犠牲になることを恐れていた。 翌年、ノルバヌスはプロコンスル前執政官)としてインペリウム軍事指揮権)を維持し北イタリア担当した。しかし、ファウェンティアの戦いでスッラ軍の将軍一人であるクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス大敗した。9,000 - 10,000戦死し、さらに6,000スッラ側に寝返った。ノルバヌスには数千人の兵士しかおらず、アリミヌムに籠城した。この敗北の後、マリウス派の北部戦線崩壊した。アリミニウム現地軍の指揮官であったプブリウス・アルビオノウァスは、ローマ軍幹部晩餐招き殺害した後にスッラ派に加わった。ノルバヌスは晩餐に行かなかったために生き残った。アリミニムの住民スッラについた。ノルバヌスは再起信じてロードス島逃げた戦争勝利したスッラは、国家の敵リスト小マリウス、ノルバヌス、セルトリウス、スキピオ、グナエウス・パピリウス・カルボの名前を挙げたロードス政府は、ノルバヌスを引き渡すように要求された。これを知ったノルバヌスは、街の広場自決した別の説によれば、既にノルバヌスは拘束されていたが、自決することができた。

※この「執政官就任と最期」の解説は、「ガイウス・ノルバヌス」の解説の一部です。
「執政官就任と最期」を含む「ガイウス・ノルバヌス」の記事については、「ガイウス・ノルバヌス」の概要を参照ください。


執政官就任と最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 16:04 UTC 版)

グナエウス・オクタウィウス (紀元前87年の執政官)」の記事における「執政官就任と最期」の解説

紀元前88年末、オクタウィウスは執政官選挙立候補する。この投票は、ローマ史上初の内戦の後に行われたルキウス・コルネリウス・スッラは、ガイウス・マリウス護民官プブリウス・スルキピウスとローマで戦い、スルキピウスは死亡マリウスアフリカ属州逃れたローマスッラ占領された。スッラはプブリウス・セルウィリウス・ウァティアを支持したが、市民スッラ敵意抱いていた。このため、オクタウィウスは当選することができた。同僚執政官パトリキ貴族)のルキウス・コルネリウス・キンナであった。おそらくこの時点では、二人共ローマ政治闘争では中立であった思われるスッラはすぐにミトリダテス6世との戦争出発した出征する前に、彼はキンナから「スッラに対して好意的態度維持する」という成約得たことが知られている。古代の資料には、これに関連するオクタウィウスの記述はない。しかし、キンナにのみそのような誓約をさせることは、余りに屈辱的であるため、スッラ双方執政官から同様の誓約得たとの説もある。何れにせよキンナはこの誓約破った執政官就任してからしばらくの後、キンナはスルキピウスの法案復活させ、新市民を全てのトリブス何れかに所属させた(それまで特定のトリブス所属することとなっていたが、この処置新市民は従来ローマ市民と完全に同一権利を持つこととなる)。この行為は、当然ではあるがスルキピウスを支持していたマリウス派とキンナ同盟したことを意味する続いて成立させた法案は、マリウスとその支持者ローマへの帰還認めることであった。 オクタウィウスはこの法案反対したが、大多数庶民だけでなく多くノビレス支持得ていた。護民官法案に対して拒否権行使したが、キンナ多数新市民をローマ呼び寄せ拒否権取り消させた。元老院セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム元老院最終布告)を出し、オクタウィウスの支持者フォルム占拠していたキンナ支持者攻撃したとも言われるアッピアノスキンナ支持者のほうが数は多かったが、勇気にかけていたため戦い敗れたとする。オクタウィウスの支持者大虐殺行い、約1万人が殺害された。キンナローマから逃走した元老院キンナ解任し、ルキウス・コルネリウス・メルラ補充執政官選出された。 一方でキンナローマ近く同盟都市カンパニアノラ包囲していたローマ正規軍支援を受けることができた。新たな内戦開始された。キンナ派は対元老院、オクタウィウス、メルラで団結したマリウス亡命先から戻りサムニウム人もこれに加わった結果ローマ敵軍囲まれることとなった。オクタウィウスとメルラはローマ防備強化し兵士武器渡した加えて前執政官として出征していたグナエウス・ポンペイウス・ストラボクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス呼び戻した。 それでも、ローマ防衛体制極めて不十分であったプルタルコスによると、オクタウィウスは「経験不足ではなく非常時にも関わらず法律遵守しようとしたために、機会逃してしまった。例えば、多く人々奴隷開放して兵士とすることを提言したが、彼はこれを拒否した」。ストラボは、ローマ近く駐屯していたが、伝染病多くの兵と共に病死した(プルタルコスストラボ打たれ死んだとする)。生存者ピウスの軍に組み入れられることを望んだが、ピウスはオクタウィウスに従うように助言した。するとこれら兵士敵方につくことをした。ピウスキンナ協定結んでイタリア離れた元老院結局マリウスキンナ降伏することとした。 オクタウィウスはローマから脱出することを勧められたがこれを拒否した。彼はヤニクルムの丘の上で敵を待っていた。キンナはガイウス・マルキウス・ケンソリヌスを騎兵とともに派遣した。ケンソリヌスはオクタウィウスを殺害しキンナにその首級渡した。オクタウィウスの首級フォルム演壇上にさらされた。続いて殺害された他の元老院議員首級並べられた。

※この「執政官就任と最期」の解説は、「グナエウス・オクタウィウス (紀元前87年の執政官)」の解説の一部です。
「執政官就任と最期」を含む「グナエウス・オクタウィウス (紀元前87年の執政官)」の記事については、「グナエウス・オクタウィウス (紀元前87年の執政官)」の概要を参照ください。

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