執政官就任と死
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「プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌス」の記事における「執政官就任と死」の解説
紀元前131年、ムキアヌスは執政官に就任した。同僚執政官はパトリキ(貴族)のルキウス・ウァレリウス・フラックスで、彼は軍神マールスの神官(フラーメン)でもあった。この2年前、アッタロス朝ペルガモンの最後の王となったアッタロス3世は、後継者となる男子がなく、自身の意志によって共和政ローマに王国を遺贈した。しかし、これを不満とするアリストニコスが王位を詐称し、紀元前131年にはローマに対して反乱を起こした。両執政官共に軍を率いて出征することを主張したが、最高神祇官を兼ねていたマンキヌスは、神官に過ぎないフラックスがローマを離れることを禁止し、結果ムキアヌスがこの戦争を指揮することとなった。これには前例があった。第一次ポエニ戦争終盤の紀元前242年、執政官アウルス・ポストゥミウス・アルビヌスはマールス神殿の最高神官(フラメン・マルティアリス)でもあり、神殿を守る義務があったため、最高神祇官のルキウス・カエキリウス・メテッルスは、アルビヌスがローマを離れることを許さなかった。紀元前189年にはムキアヌスの養祖父である最高神祇官プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェスが、クゥイリーヌスの神官でもあった法務官クィントゥス・ファブウス・ピクトルのサルディニアへの出征を禁じた。またクラッスス・ディウェスはガイウス・ウァレリウス・フラックスに対し、彼の意志に反して、ユーピテルの神官になるよう強制した。両最高神祇官ともにプレブスの出身であり、その地位を利用して配下のパトリキの権威を弱めようとしたのである。また、ムキアヌスは祖父の敗北に対する復讐を行いたいとの気持ちもあったと思われる。 民会はフラックスに好意的であったが、最高神祇官の決定に逆らうことはできなかった。結果、ムキニウスはペルガモンに向けて出発する。強力な軍を率いて小アジアに上陸し、ビテュニア、カッパドキア、パフラゴニアおよびポントスの王達からの援軍も得た。アリストニコスにはトラキアが味方したが、ローマ軍は完敗し、ムキアヌスは捕虜となった。それ以上の恥辱を避けるため、ムキアヌスは見張りの兵を殴り、結果として刺殺された。ウァレリウス・マクシムスは、「ムキアヌスは、運命が自由を奪った足かせを自ら引き裂いた。彼はそれを賢く、勇敢に行った」と述べている。切断されたムキニウスの首はアリストニコスに届けられ、遺体はスミルナに埋葬された。
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