執政官就任まで
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「ルキウス・アフラニウス」の記事における「執政官就任まで」の解説
アフラニウスはその生涯を通じて、ポンペイウスの献身的な支持者であり、その出世はポンペイウスのおかげである。現存する資料の中で、アフラニウスに関する最初の言及は紀元前75年のものである。このときアフラニウスはポンペイウスの軍のレガトゥス(副司令官)として、ヒスパニアでマリウス派のクィントゥス・セルトリウスと戦った。スクロ川の戦いでは、ポンペイウス軍の左翼を指揮して、一時的に敵を圧倒するとができた。彼の兵士たちは敵の陣地に侵入したが、後にセルトリウスは状況を安定させることができた。この戦いの結果は引き分けと考えられているが、ポンペイウス軍が敗北から免れたのは、ヒスパニア・ウルテリオル総督クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスの軍が到着したからであった。その後、アフラニウスはカラグリス・ナッシカ・ユリアを長期間包囲した後に攻撃し、完全に破壊した(復興するのはカエサル、アウグストゥスの時代)。 ある時点でアフラニウスはプラエトル(法務官)を務めたはずである。キケロの『ピソ弾劾』の中に、アフラニウスが属州総督を務め、ローマに帰還した後に凱旋式を実施したことが触れられている。これらが何時のことかは書かれていないが、セルトリウスの反乱が終わった紀元前72年から、アフラニウスが東方に出征した紀元前67年の間であろう。歴史学者は、法務官を務めたのは紀元前71年、属州総督は紀元前70年から紀元前69年と考えている。但し、凱旋式は属州総督の後ではなく、その前の紀元前70年に実施されたと推定されている。総督として赴任した属州は、ヒスパニア・ウルテリオル、ヒスパニア・キテリオル、ガリア・トランサルピナの何れかと思われる。 第三次ミトリダテス戦争が勃発すると、アフラニウスは再びポンペイウス軍のレガトゥスとなった。紀元前66年から紀元前65年にかけての冬、ポンペイウスはアフラニウスを軍の一部と共にアルメニアに残し、自身はミトリダテス6世と対決するためにコーカサスに移動した。アフラニウスはコルデュエネ地方を占領し(紀元前65年)、その後ポンペイウスと共に砂漠を越えてシリアへ進軍した。途中アマヌス山脈(現在のヌア山脈)でナバテア軍を撃破した。紀元前61年、アフラニウスはイタリアに戻った。この時のポンペイウスは、退役軍人に土地を分配したり、東方での彼の指示を遵守させるため、子飼いの人物を高い地位つける必要があった。このため、執政官選挙にアフラニウスを立候補させ、多額の資金を投じて選挙に臨んだ。 ポンペイウスはアフラニウスを執政官にしたいと考え、各トリブスにお金をばら撒き、民衆はそれを得るためにポンペイウスの庭に集まった。結果としてポンペイウスは評判を落としてしまった。執政官の職はローマの政務官の中で最高位のものであり、ポンペイウス本人もその成功の報酬としてその地位を得た。にも関わらず、実力では当選できない人物のために、その地位を金で買おうとした。 プルタルコス『対比列伝:ポンペイウス』、44. 元老院議員の多数が反対したにも関わらず、アフラニウスは当選した。同僚執政官はポンペイウスの義兄であるクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ケレルであった。その後に起こった出来事は、アフラニウスが執政官としての準備が出来ていなかったことを示している。ケレルはポンペイウスの敵の側に回り、その結果、ポンペイウスはカエサルやクラッススと同盟を結ばなければならなくなった。執政官任期の終わり頃、アフラニウスはゲルマン人の侵攻の脅威にさらされていた、ガリアの何れかの属州(キサルピナまたはトランサルピナ)を管轄したと思われるが、何れかを示す資料はない。 その後もアフラニウスは時折記録に登場する。紀元前57年9月には元老院で、ポンペイウスにローマにパンを供給する特別権限を与えるという提案を支持し、紀元前56年1月には、ローマに亡命していたプトレマイオス12世をエジプト王に復位させることを提唱し、紀元前55年2月には、政務官選挙違反に対する立候補者の責任を強化することを提案し、受け入れられている。同年、ポンペイウスはヒスパニアの3つの属州すべての正式な総督となったが、赴任はしなかった。このときアフラニウスはレガトゥスの権限で、ポンペイウスの代理としてヒスパニア・キテリオルを統治した。
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