執政官就任とヒスパニアでの戦争
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「クィントゥス・セルウィリウス・カエピオ (紀元前140年の執政官)」の記事における「執政官就任とヒスパニアでの戦争」の解説
執政官就任年と当時のウィッリウス法の規定から逆算して、クィントゥス・カエピオは遅くとも紀元前143年にはプラエトル(法務官)に就任したはずである。しかし、それ以前の経歴は不明である。 紀元前140年には執政官に就任するが、同僚のプレブス(平民)執政官はガイウス・ラエリウス・サピエンスであった。サピエンスは若いころからスキピオ・アエミリアヌスの友人で、当然に「スキピオ・サークル」の一員であり、カエピオ兄弟達「反スキピオ派」とは敵対関係に会った。執政官の内一人はヒスパニア・ウルテリオルでのヴィリアトゥスの反乱を鎮圧することとなっていた。同僚のサピエンスは法務官時代にこの戦争を指揮した経験があったが、実際に派遣されることとなったのはカエピオであった。これは彼が属する反スキピオ派の影響力の大きさを示していると思われる。カエピオは長兄クィントゥス・ファビウス・マクシムス・セルウィリアヌスから軍の指揮を引き継ぐことになっていた。 ヒスパニアへの出発前に、カエピオは深刻な困難に遭遇した。兵士の募集がこの1年で2回目となり、人員が不足していたのである。多くのローマ市民は断固としてヒスパニアに行くことを拒否し、スキピオ・サークルの支持を得ていた。アッピウス・クラウディウス・プルケルが、1年間に2回の徴兵を禁止する法律の採択を強行したのは、おそらくこれらの出来事があったからであろう。護民官の一人であるティベリウス・クラウディウス・アセッルスはカエピオに反対したが、反対演説中のアセッルスを、カエピオはリクトル(警護兵)に命じて力づくで排除した。 このような出来事のため、カエピオのヒスパニア到着は予定より大幅に遅れた。兄で前任者のセルウィリアヌスは、この間に軍事行動を続けたが、結果として敗北した。セルウィルアヌスはヴィリアトゥスと講和し、「ローマの友人であり同盟者である」と認めた。なお、時系列が逆との説もある。すなわち、兄が結んだ条約をカエピオが破棄しないように、元老院はカエピオをしばらくの間出発させなかったというものである。 実際にはカエピオは戦争の再開を望んでいた。彼は兄が結んだ条約は価値がないと宣言し、元老院に再び戦闘を開始する許可を求めた。最初は「必要と思われ、秘密裏に行うのであれば、ヴィリアトゥスを悩ませること」のみが認められたが、その後もカエピオがローマに手紙を送り続けたため、ついには元老院も講和を破棄することを決定した。クイントゥス・カエピオはヴィリアトゥスが見捨てたアルサの町を奪い、ヴィリアトゥス自身(ヴィリアトゥスは逃げ出し、彼の行く手にあるものを全て破壊した)を追ってカルペルダニアまで侵攻した。これで紀元前140年の作戦は終了した。 カエピオはプロコンスル(前執政官)として翌紀元前139年も、引き続き軍を指揮した。今回はルシタニアと同盟した部族を攻撃した。ヴェットン人(現在のエストレマドゥーラ州に居住していた部族)、さらにはガラエキ人(現在のガリシア州に居住していた部族)の土地にまで達した。カエピオは自軍の能力を信用しておらず、ヴィリアトゥスと直接戦うことを避けた。部下の兵士も、その無礼さと残酷さも加わって、カエピオを嫌い、嘲笑の対象とした。これに対する罰としてカエピオは、自軍の騎兵に対して、敵が占領する丘から木を伐採してくるように命令した。騎兵は命令を実行したが、野営地に戻るとカエピオのテントの周りに伐採した薪を山積みにして燃やした。カエピオは逃げ出さざるを得なかった。
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