執政官とガラティア戦争とは? わかりやすく解説

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執政官とガラティア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 17:16 UTC 版)

グナエウス・マンリウス・ウルソ」の記事における「執政官とガラティア戦争」の解説

紀元前189年執政官就任したウルソとノビリオルは、スキピオ兄弟に代わってアンティオコス3世と戦うこととなったくじ引き結果ウルソ小アジアでの戦線担当することとなり、ノビリオルはアエトリア同盟と戦うこととなった。しかし、その直後スキピオからの使者ローマ到着しマグネシアの戦いでの勝利とともにアンティオコス講和求めていることを知らせてきた。元老院スキピオ兄弟提案した講和条約素案認めたが、ウルソ軍事任務は「恐れのためでもあるが、しかしながらガリア人ガラティア人)との戦いが必要であるために」中止あるいは縮小されることは無かったウルソ紀元前189年春にエフェソス上陸し、そこでスキピオ兄の軍の指揮引き継ぎ兵士に対してガラティア侵攻することを伝えた。この新たな戦争は、ガラティアアンティオコス同盟していたことと、その地域脅威であると言う理由正当化された。 ウルソの軍にはペルガモンからの援軍加わり小アジア南西部進軍しながら、現地部族貢納金を供出させた。エフェソスからマグネシアen)に至りメンデレス川左岸沿ってピシディアen)に到着すると、アンティオコス息子から補給請けた。そこから南東針路変えフリギア南部キビラに近づいた。キビラ僭主であるモアゲトは、15タレント支払い済ませようとしたが、ウルソ500タレント払わないなら周囲略奪する脅し結局100タレント妥結したキビラからは北方転進しガラティア西部のトリストボギ族(en)の土地侵入したウルソはペシヌスとゴルディオン無抵抗占領したガラティア人達は妻子とともにオリンポス山現在のウル山)に避難し、その険阻さを頼り防衛拠点とした。しかし、ウルソ三方向からオリンポス山攻撃しガラティア軍を容易に打ち破ったオリンポス山戦い)。歴史家クィントゥス・クラウディウス・クァドゥリガリウス(enによれば、この戦いで4万人ガラティア人殺された。ウァレリウス・アンティアス(en)は1万とし、リウィウス捕虜少なくとも4万としている。 戦い3日後、ウルソアンキュラ現在のアンカラ)を奇襲占領した。テクトサギ族(ガラティア三部族の一つ)は交渉による平和を求めた。彼らの目的ウルソ罠にかけることであったが、これには失敗した。するとテクトサギ族はトリストボギ族と同じ戦法採用した。すなわちマガブ山に立て篭もった。さらには最後の部族であるトゥロクミ族(en)も加わりガラティア軍の兵力5万達したにも関わらずローマ軍容易にガラティア軍を敗走させた。その後大量戦利品鹵獲された。「それ以前何年もの間トロス山脈こちら側武力支配してきたが、部族消滅しなかったのが幸いであった」。ガラティア人ウルソ使節送り講和求めたウルソは彼らを交渉のためにエフェソス送ったそのときには既に秋になっていたため、彼自身は軍を率いたまま冬営入った

※この「執政官とガラティア戦争」の解説は、「グナエウス・マンリウス・ウルソ」の解説の一部です。
「執政官とガラティア戦争」を含む「グナエウス・マンリウス・ウルソ」の記事については、「グナエウス・マンリウス・ウルソ」の概要を参照ください。

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