執政官とガラティア戦争
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「グナエウス・マンリウス・ウルソ」の記事における「執政官とガラティア戦争」の解説
紀元前189年、執政官に就任したウルソとノビリオルは、スキピオ兄弟に代わってアンティオコス3世と戦うこととなった。くじ引きの結果、ウルソは小アジアでの戦線を担当することとなり、ノビリオルはアエトリア同盟と戦うこととなった。しかし、その直後にスキピオからの使者がローマに到着し、マグネシアの戦いでの勝利とともにアンティオコスが講和を求めていることを知らせてきた。元老院はスキピオ兄弟が提案した講和条約の素案を認めたが、ウルソの軍事任務は「恐れのためでもあるが、しかしながらガリア人(ガラティア人)との戦いが必要であるために」中止あるいは縮小されることは無かった。ウルソは紀元前189年の春にエフェソスに上陸し、そこでスキピオ兄の軍の指揮を引き継ぎ、兵士に対してガラティアに侵攻することを伝えた。この新たな戦争は、ガラティアがアンティオコスと同盟していたことと、その地域の脅威であると言う理由で正当化された。 ウルソの軍にはペルガモンからの援軍も加わり、小アジアの南西部を進軍しながら、現地の部族に貢納金を供出させた。エフェソスからマグネシア(en)に至り、メンデレス川の左岸に沿ってピシディア(en)に到着すると、アンティオコスの息子から補給を請けた。そこから南東に針路を変え、フリギア南部のキビラに近づいた。キビラの僭主であるモアゲトは、15タレントの支払いで済ませようとしたが、ウルソは500タレント払わないなら周囲を略奪すると脅し、結局100タレントで妥結した。 キビラからは北方に転進し、ガラティア西部のトリストボギ族(en)の土地に侵入した。ウルソはペシヌスとゴルディオンを無抵抗で占領した。ガラティア人達は妻子とともにオリンポス山(現在のウル山)に避難し、その険阻さを頼りに防衛拠点とした。しかし、ウルソは三方向からオリンポス山を攻撃し、ガラティア軍を容易に打ち破った(オリンポス山の戦い)。歴史家クィントゥス・クラウディウス・クァドゥリガリウス(en)によれば、この戦いで4万人のガラティア人が殺された。ウァレリウス・アンティアス(en)は1万とし、リウィウスは捕虜を少なくとも4万としている。 戦いの3日後、ウルソはアンキュラ(現在のアンカラ)を奇襲で占領した。テクトサギ族(ガラティアの三部族の一つ)は交渉による平和を求めた。彼らの目的はウルソを罠にかけることであったが、これには失敗した。するとテクトサギ族はトリストボギ族と同じ戦法を採用した。すなわちマガブ山に立て篭もった。さらには最後の部族であるトゥロクミ族(en)も加わり、ガラティア軍の兵力は5万に達した。にも関わらず、ローマ軍は容易にガラティア軍を敗走させた。その後大量の戦利品が鹵獲された。「それ以前の何年もの間トロス山脈のこちら側を武力で支配してきたが、部族が消滅しなかったのが幸いであった」。ガラティア人はウルソに使節を送り、講和も求めた。ウルソは彼らを交渉のためにエフェソスに送った。そのときには既に秋になっていたため、彼自身は軍を率いたまま冬営に入った。
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