執政官および前執政官とは? わかりやすく解説

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執政官および前執政官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 16:03 UTC 版)

マルクス・テレンティウス・ウァッロ・ルクッルス」の記事における「執政官および前執政官」の解説

ルキウス執政官務めていた紀元前74年末、ウァッロ・ルクッルスは次期執政官紀元前73年担当選挙立候補し当選した同僚執政官は、プレブスガイウス・カッシウス・ロンギヌスであった。両執政官穀物公共調達低所得者への値下げ販売に関する法律(テレンティウス・カッシウス法)を制定した年末には翌年管轄地域決めロンギヌスガリア・キサルピナを、ウァッロ・ルクッルスはマケドニア担当することとなった。ウァッロ・ルクッルスは執政官任期満了直後紀元前72年)にプロコンスル前執政官権限マケドニア属州総督として赴任し、その職を2年務めた。 このとき、ローマポントスミトリダテス6世第三次ミトリダテス戦争戦っていたが、ポントスマケドニア北方トラキア同盟していた。黒海西岸におけるポントス影響力取り除きローマ資産への襲撃を防ぐために、ウァッロ・ルクッルスはトラキアモエシア征服することとした。まずベッシ族の土地侵攻し大規模な戦闘ベッシ族に勝利し、その首都プルプ=デヴァ占領したその後バルカン山脈越えてモエシ族の土地侵攻しドナウ川までの土地征服した紀元前71年には黒海沿岸転進し同地ギリシア人都市ローマ服従させた。服従した都市は、アポロニアオデソス、カッラティス、イストロポル、トミスメネブリア、ディオニュソポリスが含まれる。 ウァッロ・ルクッルスは紀元前71年イタリア戻った。このときイタリアでスパルタクスの乱勃発していた。プルタルコスによると、スパルタクス戦っていたクラッススは、脅威深刻さ確信し元老院にウァッロ・ルクッルスをトラキアから呼び戻すよう要請している。この要請何時なされたか、さらには実際にこのような要請があったのかに関しては、歴史学者議論対象となっている。アッピアノスによると、スパルタクスブルンディシウム向かおうとしたが、そのときにウァッロ・ルクッルスがブルンディシウム上陸し反乱軍計画の変更余儀なくされたという。ウァッロ・ルクッルスの到着知ったクラッスス反乱軍決戦挑み、これに大勝した逃れた反乱兵も北方から接近してきたポンペイウス軍に捕虜とされた。ローマ戻ったウァッロ・ルクッルスは凱旋式実施したギリシア都市から多数芸術品戦利品として持ち帰られたが、特にカラミスのアポローン巨像は、凱旋式行進中でも目を引いた。この像は後にカピトリヌス鎮座された。

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執政官および前執政官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 17:02 UTC 版)

ガイウス・スクリボニウス・クリオ (紀元前76年の執政官)」の記事における「執政官および前執政官」の解説

紀元前78年末、クリオ執政官選挙立候補した。しかし選挙運動途中でマメルクス・アエミリウス・レピドゥス・リウィアヌスのために立候補取り下げた結果レピドゥス当選するが、この辞退レピドゥスの弟であるマルクス・リウィウス・ドルススクリオの古い友情理由かもしれない翌年クリオ再度立候補して当選紀元前76年執政官就任した同僚執政官同じくプレブスグナエウス・オクタウィウスであったミュンツァーは、この時点クリオがポンティフェクス(神祇官)の一員であった考えている(神祇官としてクリオ資料言及されているのは紀元前57年できごとに関してである)。非常に信心深い人物であったクリオは、元老院シビュラの書復元提案したこの年護民官グナエウス・シキニウスが、スッラ制定した護民官権限制限する法律の廃止訴えたが、両執政官はこれに反対した。シキニウスは当初から嘲笑をもってクリオ攻撃していたが、両者の対立については全体的にはほとんど知られていないサッルスティウスは、シキニウスはノビレス新貴族)たちに「包囲され」、この対立は「無実護民官死につながったと書いているが、これを本当にシキニウスが殺害されたのか、あるいは単なる比喩なのかに関して歴史学者の意見分かれている。 その年(紀元前76年)の夏ごろには、クリオ死去したアッピウス・クラウディウス・プルケル後任としてマケドニア属州総督となり、現地赴任したクリオは5個ローマ軍団隷下有していた。その1個がディラキウムで反乱したが、クリオはこれを鎮圧している。その年の終わりまでにトラキアのモエシ族に勝利した。翌紀元前75年にもプロコンスル前執政官)としてインペリウム軍事指揮権)を継続しダルダニア族とその周辺部族撃ち破りローマの将軍として初めドナウ川下流域達し、後にモエシア属州となる地域征服した紀元前74年前執政官権限維持し現地部族反乱抑えローマ戻って凱旋式実施した凱旋式のファスティ欠損のために、式の実施日不明であるが、紀元前74年末か、あるいは紀元前73年だったかもしれない

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