執政官および前執政官
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「マルクス・テレンティウス・ウァッロ・ルクッルス」の記事における「執政官および前執政官」の解説
兄ルキウスが執政官を務めていた紀元前74年末、ウァッロ・ルクッルスは次期執政官(紀元前73年担当)選挙に立候補し当選した。同僚執政官は、プレブスのガイウス・カッシウス・ロンギヌスであった。両執政官は穀物の公共調達と低所得者への値下げ販売に関する法律(テレンティウス・カッシウス法)を制定した。年末には翌年の管轄地域を決め、ロンギヌスはガリア・キサルピナを、ウァッロ・ルクッルスはマケドニアを担当することとなった。ウァッロ・ルクッルスは執政官任期満了直後(紀元前72年)にプロコンスル(前執政官)権限でマケドニア属州総督として赴任し、その職を2年務めた。 このとき、ローマはポントス王ミトリダテス6世と第三次ミトリダテス戦争を戦っていたが、ポントスはマケドニア北方のトラキアと同盟していた。黒海西岸におけるポントスの影響力を取り除き、ローマ資産への襲撃を防ぐために、ウァッロ・ルクッルスはトラキアとモエシアを征服することとした。まずベッシ族の土地へ侵攻し、大規模な戦闘でベッシ族に勝利し、その首都プルプ=デヴァを占領した。その後バルカン山脈を越えてモエシ族の土地に侵攻し、ドナウ川までの土地を征服した。紀元前71年には黒海沿岸に転進し、同地のギリシア人都市をローマに服従させた。服従した都市は、アポロニア、オデソス、カッラティス、イストロポル、トミス、メネブリア、ディオニュソポリスが含まれる。 ウァッロ・ルクッルスは紀元前71年にイタリアに戻った。このときイタリアではスパルタクスの乱が勃発していた。プルタルコスによると、スパルタクスと戦っていたクラッススは、脅威の深刻さを確信し、元老院にウァッロ・ルクッルスをトラキアから呼び戻すよう要請している。この要請が何時なされたか、さらには実際にこのような要請があったのかに関しては、歴史学者の議論の対象となっている。アッピアノスによると、スパルタクスはブルンディシウムに向かおうとしたが、そのときにウァッロ・ルクッルスがブルンディシウムに上陸し、反乱軍は計画の変更を余儀なくされたという。ウァッロ・ルクッルスの到着を知ったクラッススは反乱軍と決戦に挑み、これに大勝した。逃れた反乱兵も北方から接近してきたポンペイウス軍に捕虜とされた。ローマに戻ったウァッロ・ルクッルスは凱旋式を実施した。ギリシア都市から多数の芸術品が戦利品として持ち帰られたが、特にカラミスのアポローンの巨像は、凱旋式の行進の中でも目を引いた。この像は後にカピトリヌスに鎮座された。
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執政官および前執政官
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「ガイウス・スクリボニウス・クリオ (紀元前76年の執政官)」の記事における「執政官および前執政官」の解説
紀元前78年末、クリオは執政官選挙に立候補した。しかし選挙運動の途中で、マメルクス・アエミリウス・レピドゥス・リウィアヌスのために立候補を取り下げた。結果レピドゥスが当選するが、この辞退はレピドゥスの弟であるマルクス・リウィウス・ドルススとクリオの古い友情が理由かもしれない。翌年、クリオは再度立候補して当選、紀元前76年の執政官に就任した。同僚執政官は同じくプレブスのグナエウス・オクタウィウスであった。 ミュンツァーは、この時点でクリオがポンティフェクス(神祇官)の一員であったと考えている(神祇官としてのクリオが資料で言及されているのは紀元前57年のできごとに関してである)。非常に信心深い人物であったクリオは、元老院にシビュラの書の復元を提案した。この年、護民官グナエウス・シキニウスが、スッラが制定した護民官の権限を制限する法律の廃止を訴えたが、両執政官はこれに反対した。シキニウスは当初から嘲笑をもってクリオを攻撃していたが、両者の対立については全体的にはほとんど知られていない。サッルスティウスは、シキニウスはノビレス(新貴族)たちに「包囲され」、この対立は「無実の護民官の死につながった」と書いているが、これを本当にシキニウスが殺害されたのか、あるいは単なる比喩なのかに関して、歴史学者の意見は分かれている。 その年(紀元前76年)の夏ごろには、クリオは死去したアッピウス・クラウディウス・プルケルの後任としてマケドニア属州の総督となり、現地に赴任した。クリオは5個ローマ軍団を隷下に有していた。その1個がディラキウムで反乱したが、クリオはこれを鎮圧している。その年の終わりまでにトラキアのモエシ族に勝利した。翌紀元前75年にもプロコンスル(前執政官)としてインペリウム(軍事指揮権)を継続し、ダルダニア族とその周辺部族を撃ち破り、ローマの将軍としては初めてドナウ川下流域に達し、後にモエシア属州となる地域を征服した。紀元前74年も前執政官権限を維持し、現地部族の反乱を抑え、ローマに戻って凱旋式を実施した。凱旋式のファスティの欠損のために、式の実施日は不明であるが、紀元前74年末か、あるいは紀元前73年だったかもしれない。
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