神祇官として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 14:39 UTC 版)
明治元年(1868年)藩の貢士(柳河藩の石高では2名)の一人として選ばれ上京、太政官に出仕する。同3年(1870年)神祇少禄官となり京都で有職故実を精査、同5年(1872年)冬、吹上禁苑初の大嘗祭では用掛として出仕、同7年(1874年)伊勢神宮権禰宜となる。また狩野永悳を補佐して、外務省の委嘱で製図を行う。こうした間に、土佐光文に大和絵、永悳に狩野元信の画法、大国隆正と宝田通文に国学、薗田守宣に故実を学び、近代の大和絵師として研究を続けた。なお宝田からは、花陵の号を貰っている。ところが、同10年(1877年)事故を起こして免職。上司で国学者の落合直澄の忠告もあり、以後画業に専念する。
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