近代の大和絵師
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免職後は、京都で陶器や友禅の下絵を描き、大阪の博物場にも務めたという。この頃、町田久成の知遇を得て、正倉院宝物の模写などを手掛ける。明治14年(1881年)第2回内国勧業博覧会の際、町田の推薦があったのか東京への移住を命じられる。その後相次ぐ展覧会での授賞や皇室への献納などを通じて御楯は歴史画家としての評判を高めていく。同15年(1882年)第一回内国絵画共進会に「尹大納言叡山行図」「人物」で銅賞受賞。前者は特に評判となり、故実家の村田直景は息子(後に御楯の一番弟子となる邨田丹陵)を入門させ、明治天皇からも同一画揮毫の命を受ける。同17年(1884年)第二階内国絵画共進会でも銀賞一等。その後川端玉章、山名貫義、渡辺小崋らと東洋絵画会を結成。同22年(1889年)日本美術協会幹事に任命され、本会を主たる発表の場とした。明治20年代が御楯にとって最も充実した時期であり、優れた歴史画や物語絵を次々と制作し、明治の土佐派として存在感を示した。反面、同25年(1892年)には将来を嘱望した長男・白鶴を22歳で亡くし、同30年(1897年)には妻に先立たれるなど家庭の不幸が重なり、御楯の事績も次第に減少していく。 晩年は門下生の展覧会「墨流会」を年2回開催するなど、後進の指導に全力を尽くしたという。しかし生活は困窮し、弟子の中村岳陵はしばしば水道やガスを止められたと回想している。明治38年7月24日浅草小島町の自宅で、急性胃腸カタルにより死去。享年68。27日に谷中天王寺で葬儀が行われ、谷中墓地に葬られた。諡は源御楯尊。
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