近代の大和絵師とは? わかりやすく解説

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近代の大和絵師

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 14:39 UTC 版)

川辺御楯」の記事における「近代の大和絵師」の解説

免職後は、京都陶器友禅下絵描き大阪博物場にも務めたという。この頃町田久成知遇得て正倉院宝物模写などを手掛ける明治14年1881年第2回内国勧業博覧会の際、町田推薦があったのか東京へ移住命じられるその後相次ぐ展覧会での授賞皇室への献納などを通じて歴史画としての評判高めていく。同15年1882年第一回内国絵画共進会に「尹大納言叡山行図」「人物」で銅賞受賞前者は特に評判となり、故実家村田直景は息子(後に御一番弟子となる邨田丹陵)を入門させ、明治天皇からも同一揮毫の命を受ける。同17年1884年第二内国絵画共進会でも銀賞一等その後川端玉章山名貫義渡辺小崋らと東洋絵画会を結成。同22年1889年日本美術協会幹事任命され本会主たる発表の場とした。明治20年代が御にとって最も充実した時期であり、優れた歴史画物語絵次々と制作し明治土佐派として存在感示した反面、同25年1892年)には将来嘱望し長男白鶴22歳亡くし、同30年1897年)には妻に先立たれるなど家庭の不幸が重なり、御事績次第減少していく。 晩年門下生展覧会墨流会」を年2回開催するなど、後進の指導全力尽くしたという。しかし生活は困窮し弟子中村岳陵はしばし水道ガス止められたと回想している。明治38年7月24日浅草小島町自宅で、急性胃腸カタルにより死去享年6827日谷中天王寺葬儀が行われ、谷中墓地葬られた。諡は源御尊。

※この「近代の大和絵師」の解説は、「川辺御楯」の解説の一部です。
「近代の大和絵師」を含む「川辺御楯」の記事については、「川辺御楯」の概要を参照ください。

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