近代の家族制度
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1870年に定められた『新律綱領』では妻と妾が同等に規定され、翌年制定された『戸籍法』では妾の入籍が明記され、一夫多妻制が法制化される。一方で1873年の太政官布では条件付きではあるが、女性から離婚の申し立てが認められ、法的救済の道が開けた。また外国人との婚姻も認められたが、父が日本人である場合にその子が日本国籍を取ることが許される男系主義であった。1890年に公布された旧民法では財産の個人所有や婚姻の自由が認められていたが、穂積八束らの反対により民法典論争がおこって施行が延期され、1898年に施行されるまでに家族関係における男尊女卑を規定する内容に変更された。その結果、男性を戸主とする男尊女卑の秩序が示され、近世からの家父長制度を法規範として固定化し存続させた。これにより戸主の権限が強くなり、戸主は本人の同意なく家族を離籍することができるようになった他、子供の婚姻も父の権利となった。妻は婚姻によって夫の姓を名乗ることを強要され、さらに夫は妻の財産を管理すると定められる。また親権は父のものであり、父が親権を行使できない場合は母が親権者になれたが、子の財産管理は「他家からきた嫁」には認められず親族会の同意が必要であった。こうして家の存続に全てを犠牲にする女性が婦女の鏡と称えられるようになる。 女性の役割を家庭の中に求める国家の姿勢を批判したのは1911年に発刊された『青鞜』であった。誌面上で平塚らいてうは家制度を否定し女性の個の確立を訴えた他、西崎花世、安田皐月らが自由恋愛、避妊、堕胎、廃娼などの女性問題が取り上げ、女性解放運動に一石を投じた。 第一次世界大戦をきっかけにして重化学工業が発展を遂げると、都市部に人口が集中しサラリーマン層が増えた。その結果として賃金生活者を中心として核家族が増加する。こうした家庭の多くは夫が労働、妻は育児という役割分担が行われた。アメリカ流の合理的育児法が宣伝され「少なく生んで多く教育する」とする考えが広まる。子供の教育が母親の課題となったが、親族やコミュニティから離れて相談する相手のいない女性たちに、女性向け雑誌が歓迎された(メディアについては後述)。 1917年に寺内正毅内閣は民法の改正に乗り出し審議会を発足する。そこでの議論は親族法と相続法をより家父長的にしようとする保守派と、個人主義、近代主義的な家族形態に改めようとする進歩派の攻防であった。1929年には戸主権、父権の縮小と乱用防止、および親権の近代化を図る改正案の答申が成立したが、太平洋戦争に突入して改正は実現しなかった。
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