近代の対外関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
移民 1900年以降、経済的に貧しかった農村から国外への移民を日本政府は奨励した。日米で移民についての紳士協定が結ばれた1908年から1924年にかけて、約1万人の女性がアメリカへ渡った。親の意見や経済的事情が理由となり、見合い写真や手紙だけで相手を決めたために「写真花嫁」とも呼ばれた。ブラジルへの移民は1908年の笠戸丸から本格化し、1920年代にアメリカ合衆国で日系移民排斥運動が起きると、ブラジルが最大の受け入れ国となった。 満州へは、国策として農業開拓移民が行われた。満蒙開拓青少年義勇軍として20歳未満の男性が送られ、その結婚相手として女性が送り込まれた。日本政府は「花嫁100万人送出計画」(1939年)を決定し、官製団体の日本連合女性青年団や日本婦人団体連盟をはじめ、さまざまな女性団体が協力した。こうして送られた女性は「大陸の花嫁」とも呼ばれた。満州では多民族による五族協和がスローガンだったが、日本政府は日本人と他民族との結婚を認めず、「大和民族の純潔を保持すること」(『女子拓殖要指導者提要』の記述)という純血主義にもとづいて日本女性を送った。 移民先の仕事は、北米や南米では主にコーヒー農園などの農業で、女性も過酷な労働に従事した。これに対して台湾、朝鮮半島、満州などの地域では、公務員や自由業が38%、商業が22%、工業が17%となり農業は少なかった。国籍法(1899年)は父系血統主義であり、生まれた子に出生国の国籍が与えられる出生地主義ではなかった。 戦争協力 「女子挺身隊」および「従軍看護婦#日本の従軍看護婦」も参照 1907年に日露戦争が始まると女性の協力が呼びかけられる。これに呼応して全国の婦人団体で金品の献納などが呼びかけられ、軍人家族の救護や傷兵慰問などが行われる。こうした援助活動の中心となったのは内務省、陸軍省の後援を受けた半官的な愛国婦人会である。また日本赤十字社も看護婦らを戦地に送った。こうした「女性が政治に参加できない中で協力を求められる風潮」に異議を唱えたのは社会主義の婦人であった。また満州開拓義勇軍や傷痍軍人との結婚が奨励され、戦死した長男の嫁を次男の嫁に「なおす」ことが半ば強制的に行われたりした。 結婚は兵力、労働力の源泉と位置付けられる。『人口政策確立要領』では1960年までに人口を1億まで増やすことを目的に定め、そのために早婚を奨励するようになり、女性の就労が抑制される。しかし実態としては男性が戦地に赴くために主婦の多くが困窮し、また労働力不足から様々な社会活動に従事させられていく。1943年に『工場法戦時特例』が出され、指定工場では深夜就業などの制限が適用されなくなる。14歳以上の未婚女性を女子挺身隊として組織して航空機製造などで長時間労働が行われた。また同年に事務補助や車掌などに男性の就労が禁止される。戦局の悪化と共に『女子挺身勤労令』により違反者に罰則ができるが、既婚女性にたいしては敗戦まで強制的な新規徴用は行われなかった。 一方で従軍看護婦として戦場に送り込まれた女性もいる。特に日本赤十字社は兵士同様に召集令状がくれば速やかに応じるようにとされ、約3万人が戦場に送り込まれ1080人が亡くなった。他に陸海軍所属の看護婦は約1万人とされる。 沖縄戦では沖縄住民に動員が掛けられるが、その中にはひめゆり学徒隊ら女性学生約500人もいた。また戦局が悪化すると女性や子供たちを含む住民は集団自決をした。沖縄戦で命を落とした県民は10万人を超え、原爆でも広島で20万人余り、長崎で10数万人、ほか全国で空襲により多くの一般市民が命を落とした。 植民地・占領地 満州事変以降、大陸に戦場が広がると、占領地において日本軍による強姦、買春などの不法行為が頻発する。事態を重く見た軍は性病予防と強姦防止を名目として慰安所を設置。そこに中国、朝鮮、台湾、日本から集めた女性を慰安婦として送り込み軍人の性処理にあたらせた。女性の多くは借金や暴力により強制的に連れてこられ、性行為を拒否できなかった。1942年以降はインドネシアなど東南アジア、太平洋地域にも設置されるが、慰安所設置の目的は兵士の不満や犯行を抑える為であり、女性たちはそのための道具とされた。 植民地や占領地では皇民化政策が進められ、朝鮮半島では内鮮一体、満洲国では五族協和がスローガンとなった。しかし実態としては日本人を最上とする民族格差があり、さらにそれぞれの民族内で男女格差もあった。
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