近代の市比野
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江戸時代には薩摩国薩摩郡樋脇郷(外城)のうちであった。村高は「天保郷帳」では2,769石余、「三州御治世要覧」では2,351石余、「旧高旧領取調帳」では2,560石余であった。 文禄年間に行われた検地以後は島津氏の直轄領となっていたが、慶長18年(1613年)に入来院重高の領地となった。万治2年(1659年)には入来院から分離し再び薩摩藩直轄領となり、新たに画された清敷郷のうちとなった。延宝9年(1681年)に清敷郷は樋脇郷に改称した。 江戸時代になり平和となったことから人口が増加し、薩摩藩においても開田事業が盛んに行われた。市比野では寛文9年(1669年)に市比野新田の開拓が始められ、藤本から流れる木場川から導水した用水によって宇都・和田・三角に約100町歩の田圃が開拓された。 宝永年間(1704年~1711年)には薩摩藩主島津光久によって市比野川と城後川が合流する付近に温泉浴場が整備され、温泉場として有名となった。疝癪や脚気に効くとされ、鹿児島方面からの湯治客が多かったとされる。薩摩藩の地誌である「三国名勝図会」には市比野温泉及び湯元瀑について以下のように記述されている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}市比野温泉 市比野村にあり、往昔寛陽公當邑に過臨し、田獵の日浴湯し玉へるとて、今に至り、農民樵夫温泉の邊には跣足にして至り、草鞋を著ることを戒む、近古までは、村里の農民耕耨の労を治する爲に浴場せしが、漸々良湯の名廣まりて、頃年近邑あいふに及ばず、本府よりも來りて入浴の徒多く、或は百人に近し、温泉清澄にして、茶を煎して其味少しも變ぜす、然れども灰汁湯なりともいひ、亦明礬湯なりとも稱ず、能疝癪及び脚気等の諸病を治すといへり、温泉の中、下之湯上之湯と號して、其間六十歩許相隔て、二所にあり、下之湯は樋脇川の上流、市比野川の岸畔、巖石の際より出づ、温泉一竅より湧出て、湯勢甚壮なり、又傍の巖隙よりも少しつゝ處々に沸出せり、川に臨んで、湯池三を設く、其一は四周石にて築く、此湯池は往昔より在り、其二は四周松板にて圍む、頃年是を製す、竹筧にて泉を取り、湯池に注ぐ、亦此外に湯瀑を設く、巖下に池を穿ち、處々より出る泉を池に潴へ筧若干を置て泉を流し、瀑勢をなして、病人の痛處に瀉き打しむ、俗に所謂うたせなり、此川の左右は皆水田なり、温泉の西一町許に湯の崖といへる山あり、此山下より田間川畔に至り、今客舎あり、又上之湯は、下之瀑の南に在り、其温泉は田間に出づ、温泉をさること二歩許にして、其低處に湯池一を設け、此上之湯近邊に客舎を搆ふ、浴客は大抵下之湯に於てす、若浴徒多くして雑沓する時は、上湯に來り浴せり、 湯元瀑 上之湯の東側にあり、上之湯より三十歩許東に當る、即ち市比野川の上なり、瀑高さ二歩許亦同し、土人湯元瀑と號す、上之湯下之湯二泉の流は、皆此川に入る、 —三国名勝図会巻十一 市比野村には郷士はほとんど居住しておらず、米や麦、粟、蕎麦、甘藷、ツバキが栽培されていた農村であった。嘉永元年(1848年)には市比野村の年貢徴収において使用されていた升の規格が徴収の際には古い升が使用され、支出される際には新しい升が使用されているという噂が市比野村の農民の間で広がった。農民の同志が集まり上訴しようとしたところ、役所に察知され4名が流罪となり種子島に流された。明治4年7月14日に廃藩置県が行われ薩摩藩は廃止され、鹿児島県に属することとなった。
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