近代の寧古塔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 18:05 UTC 版)
清代末期になると北京条約などによりアムール川以北やウスリー川以東はロシアに割譲され、毛皮貿易など少数民族相手の交易は衰える。また東清鉄道建設に伴いハルビンなどの街が建設されるが、それでも寧古塔は満州東部の数少ない都市でありロシアなどに対する軍事拠点だった。特に牡丹江沿岸にあたるため水田耕作に適した土地で、19世紀終わりから漢民族や朝鮮人が周辺に移住し稲作や畑作を始めた。 吉林省設置以降は寧安府、次いで寧安県が寧古塔に置かれたが、寧安県設置以後も寧古塔という名は慣用的に使用されていた。辛亥革命以降の混乱期には、寧古塔は中国人の革命運動や朝鮮人の抗日パルチザンなどさまざまな勢力の拠点となった。1930年代に日本が満州国をこの地に建国してからしばらくの間も寧古塔は農林業の集散地として栄えていたが、牡丹江市の建設により農林業上・軍事上の拠点としての地位を譲ることとなった。
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