日系移民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 09:55 UTC 版)
ロサンゼルスで日本人の定住が公式に認められたのは1888年である。1900年には150人の日本人が住んでいた。1899年発足の鹿児島県人会に続き、さまざまな県人会が設立された。1906年のサンフランシスコ地震により、ロサンゼルスに移動してくる日本人が増え、この急激な増加と白人による人種差別の高まりによって排日ムードが高まった。 サンフランシスコからの移住組は身を守るため、ロサンゼルス街とアラメダ街の間にある通りに集まって暮らしはじめ、1908年にはこれが「リトルトーキョー」と呼ばれるようになった。1909年、当時日本人会長だった甲斐政次郎は、生花栽培と流通を担う南カルフォルニア花市場株式会社を設立し、この生花流通システムを全米に拡げた。ただ、日曜の営業や低賃金女性労働者利用は社会からの批判もあり、1913年にはカリフォルニア州外国人土地法が施行された。市民権獲得資格の無い外国人の土地所有が制限され、1924年移民法では移民が制限されたものの、1928年には藤井整が最高裁で勝訴し日系人がロサンゼルスで病院を開設することが認められ、1931年には加州毎日新聞社も設立された。 1930年代には2万人を超える日本人や日系人が暮らし、リトルトーキョーはアメリカ最大の日本人街になった。その後日本人及び日系人の数は4万人近くまで膨らんだが、第二次世界大戦により、日系人の強制収容が始まり、日本人や日系人のいなくなった町には黒人が住みついた。 戦後になり、1948年にはカリフォルニア州外国人土地法が藤井の裁判によって覆され、日系1世は土地の購入をできるようになった。日系人や日本人が戻ってきたが、強制収容により土地や職業、資産を奪われたことや、日本人漁業禁止法などによって生業を奪われたことから、以前のような勢いには戻らなかった。ただ花市場は現在も、日系人社会を背景に運営されている。 1964年には、南加県人会協議会が発足した。
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