日系移民としての後半生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:02 UTC 版)
1902年(明治35年)10月27日、ロサンゼルス在住の日本人開業医渡辺準哉の妹・じやうと結婚した。翌1903年(明治36年)1月26日、長男譲爾(ジョージ)が生まれる。 1903年1月、渡米してきた奥宮健之に多大な援助を行う。12月、シアトルで日本語紙『新日本』を発刊した。 日露戦争に際しては日本政府に軍資として金505円余を献納しており、銀杯を下賜されている。 1907年(明治40年)5月、サンフランシスコの日本人学童隔離問題の解決のため一時帰国し、外務省に陳情、各地で講演旅行を行う。 1917年(大正6年)、小沢孝雄対アメリカ合衆国事件(en:Ozawa v. United States)支援のため、第1回太平洋沿岸日本人協議会にシアトル代表の一人として参加。 1919年(大正8年)、国際労働会議第1回大会に際し、北米連絡日本人会を代表して日本側委員らと面会する。 1922年(大正11年)、伊藤痴遊をシアトルに招待した。 1924年(大正13年)2月28日、シアトルで心臓麻痺のため死去した。
※この「日系移民としての後半生」の解説は、「鈴木音高」の解説の一部です。
「日系移民としての後半生」を含む「鈴木音高」の記事については、「鈴木音高」の概要を参照ください。
- 日系移民としての後半生のページへのリンク