講演旅行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 08:33 UTC 版)
退官直後の1924年4月、犬養系革新倶楽部青年層の支持を受けて衆議院議員選挙に岡山県第7区(真庭郡 ・久米郡)から立候補するも、落選。 同年7月、親交のあったチャールズ・A・ビーアド(英語版)博士と前駐日大使モリス(英語版)の勧めを受けて排日移民法施行後の米国へ渡り、ウィリアムズタウンの国政政治学協会をはじめ、200-300箇所の大学・諸団体で日本事情の英語講演を行う。1925年12月に帰国するまでの1年余、日本事情を紹介するとともに、排日移民法を非難して歩いた。 米国滞在中の1925年7月にはホノルルで開かれた第1回太平洋会議に出席した。以後、1936年に米国ヨセミテ国立公園アワニー・ホテルで開かれた第6回会議まで、戦前に行われた太平洋会議に鶴見は毎回出席している。 1926年、米国からの帰国後、後藤新平が前年から展開していた政治倫理化運動に参加し、帰国報告を兼ねて日本各地で遊説。1927年5-6月には満州、朝鮮、中国で講演旅行を行い、同年7月ホノルルで開催された第2回太平洋会議に出席し日本代表として声明を発表。 退官後、鶴見は著述により生計を立てるようになり、1927年に軽井沢に建てた山荘で執筆活動に励んだ。1927年には講談社からの依頼を受けて雑誌『婦人倶楽部』に小説『母』を連載した。
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