日本側委員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 08:45 UTC 版)
旧約聖書の分冊が刊行されると、植村正久は『六合雑誌』で公の批判を行った。先の新約聖書に比較してきわめて未熟な日本語であるという不満であり、日本語をわきまえぬ宣教師と能力のない「青書生」の手でこのまま聖書が訳されていくのは迷惑千万と言い切る。 個人訳のように刊行されていた、旧約聖書翻訳の混乱に危惧を感じていた、植村を含む日本人信徒は東京翻訳常設委員と外国聖書会社あてに意見書を提出する。1883年(明治27年)7月12日には12名の日本全国の旧約聖書翻訳委員の選出を決議する。 その結果、奥野昌綱、小崎弘道、植村正久、井深梶之助、新島襄、伊勢時雄、松山高吉、大儀見元一郎、稲垣信、木村熊二、押川方義、平岩愃保の12名が選出された。 この結果を受けて、小崎、植村、井深、大儀見、木村の6人が警醒社で会合を持って、小崎を旧約聖書翻訳委員長に、翻訳委員に植村、井深、松山の3人を選んだ。1884年(明治17年)この三人は「委員」の資格で迎えられた。 1885年3月より、井深が詩篇、ヨエル書の校正、哀歌とゼパニヤ書の翻訳、植村がエステル書の翻訳に取り組んだ。日本人委員は旧約聖書一部を訳したのみで、外国側の提案により、1886年1月22日に廃止された。廃止された理由は、日本の教会の資金調達が不調であったことと日本人委員のテキストの知識不足が原因であったと言われる。 その後は、外国人宣教師の主導のもとに行われ、植村、松山、井深らは日本語文に関して一部協力するにとどまった。
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