東方文化学院の設置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/07 19:53 UTC 版)
詳細は「東方文化学院」、「東京大学東洋文化研究所」、および「京都大学人文科学研究所」を参照 こののち、北京・上海の研究所とは別に、日本人研究者のみからなる中国研究の機関を日本国内に設立すべきであるという主張が日本側から起こった。外務省の岡部長景文化事業部長は、日本側委員であった服部宇之吉・狩野直喜に打診し(この2人は義和団の乱当時、留学生として北京の日本公使館に籠城した経験をもつ)、その結果、東京・京都の両研究所よりなる「東方文化学院」の設立が決定し1929年4月に正式に発足した。この後しばらく東方文化事業の予算は東方文化学院に優先的に回されることになり、北京人文科学研究所の事業は一層停滞し、準備中であった上海自然科学研究所の設立はさらに遅れることになった。学院の2つの研究所は、もともと東京帝大・京都帝大それぞれの学者によって運営されており独立性が高かったが、日本政府が要求する時局的研究(中国の現状分析的研究)の受け入れの可否をめぐって完全に齟齬をきたし、1938年には分離して全くの別組織となってしまった。
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