上海自然科学研究所
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上海自然科学研究所(しゃんはいしぜんかがくけんきゅうじょ)は上海市にある研究機関、徐匯区最初の近代総合研究機関でもある[1]。徐匯区岳陽路320号に位置する。
上海自然科学研究所は日本が出資、1931年に設立した[2]。研究所建築の設計者内田祥三は安田講堂の設計者でもある。ゴシック様式とアール・デコを融合させ、上海市優秀歴史建築である[3][4]。
出典
- ^ 区县志 >> 区志 >> 徐汇区志 >> 第二十六篇科技 アーカイブ 2020年9月19日 - ウェイバックマシン上海地方志办公室
- ^ 专业志 >> 上海科学技术志 >> 第二编科技机构、管理和服务 >> 第一章科技机构 >> 第三节 上海自然科学研究所 アーカイブ 2016年4月27日 - ウェイバックマシン上海地方志办公室
- ^ 上海自然科学研究所旧址 アーカイブ 2014年5月4日 - ウェイバックマシン天平街道不可移动文物
- ^ 岳阳路320号在君楼 アーカイブ 2008年8月27日 - ウェイバックマシン上海市徐汇区旅游咨询中心
上海自然科学研究所
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「新城新蔵#上海自然科学研究所と新城」も参照 1931年4月に正式開所。研究所章程では「自然科学の純粋学理」の研究を目的とし「中国にとって必要な事項」を優先することを標榜した。医学部(病理学科・生薬学科)・理学部(物理学科・化学科・生物学科・地質学科)の2部門5学科から構成された。中国側委員の辞職後も比較的日中共同の研究体制が維持され、「研究生」は中国人のみを採用した。第2代所長の新城新蔵(1935 - 38在任)の時代にはリベラルな雰囲気が保たれ、小宮義孝・柘植秀臣ら左翼運動の前歴をもつ研究者が嘱託として採用されることもあった。しかし新城が急死した後、佐藤秀三(東京帝大教授)が所長になると独裁的・官僚的運営が行われ、国策機関への転換が進められるようになり、日中共同の雰囲気は完全に失われた。この結果多くの所員が熱意を失い研究所を去っていった。日本の敗戦と同時に研究所は国民政府に接収されて中央研究所の研究機関の一部に編入、さらにその後中華人民共和国に引き継がれ、中国科学院の薬学研究所および生理学研究所によって使用された。
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