中国側委員の退席
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この事業に対しては、当初からこれを「文化侵略」とし賠償金の全額返還を求める中国側世論の反発が強く、「東方文化事業総委員会章程」は1926年7月になってようやく決定された。この「章程」に基づき、同年12月には「上海自然科学研究所」(正式な開所は1931年)、翌1927年10月「北京人文科学研究所」「(北京)東方文化図書館」の設立がそれぞれ決定された(このうち東方文化図書館については結局実現には至らなかった)が、日本側委員による独善的運営が目立ち中国側は強く反発したとされる。さらに、1928年日本の山東出兵を発端に済南事件が起こると、中国世論からの風当たりはますます厳しくなり、5月には中国側委員は全員が抗議の辞職を行った。また事業において一方のパートナーだった北京政府が北伐進展により瓦解し、日本は改めて南京の国民政府を交渉相手としなければならなくなった。これらの結果、日中共同での事業継続は困難になり、特に中国側スタッフに多くを依存していた北京人文研の活動は停滞することになった。
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