中国僧による記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 04:10 UTC 版)
「アヌラーダプラ・マハーヴィハーラ」の記事における「中国僧による記録」の解説
『マハーワンサ』の物語る伝統的な上座部の歴史記述は、5世紀初頭 (399年〜414年にかけて) インドとスリランカを訪れた中国の仏教僧、法顕の報告と相違する。『仏国記』(法顕が406年頃にスリランカで書き始めた詳細な旅行記) によると、アヌラーダプラ僧院は無傷であるだけでなく、3000人もの僧侶がそこにいた。また法顕は、阿羅漢として尊敬されていた沙門に関する書物がアヌラーダプラで焚書されるのに来訪者として加わったと書き残している。さらにアバヤギリ・ヴィハーラも失われておらず、5000人の僧を擁していたとしている。 7世紀には玄奘三蔵がスリランカの寺院について書き残している (『大唐西域記』、第11巻)。玄奘はセイロン島の上座部に二派があったと報告しており、アヌラーダプラ僧院派(大寺派)を小乗上座部、アバヤギリ・ヴィハーラ派(無畏山寺)を大乗上座部と呼んでいる。玄奘は、スリランカでは「大乗上座部」(大乗と上座部の兼学と解される)が行われていると報告しており、考古学資料はアバヤギリ・ヴィハーラ(無畏山寺)で大乗経典が学ばれていたことを裏付けている。
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