上海自然科学研究所と新城
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「新城新蔵」の記事における「上海自然科学研究所と新城」の解説
「東方文化事業#上海自然科学研究所」も参照 新城は上海自然科学研究所の第2代所長として、対日感情悪化のもとで次第に困難になっていた日中共同の研究活動を維持すべく尽力した。日中研究者の交流会や市民向け講演会を開催したり、日本人の研究所員のために中国語講習会を開く一方、中国人職員に対して彼自身が日本語を教えることもあったという。こうした彼の努力により所内ではリベラルな雰囲気が保たれ、柘植秀臣・小宮義孝など左翼活動の前歴で日本国内での就職が難しくなっていた研究者が上海自然科学研究所に嘱託として採用されることもあった。 新城の死後も、熱意ある所員たちに文化財の保護事業は引き継がれ、1941年に重慶の国民政府に整理報告・目録とともに引き渡された。しかし、佐藤秀三が第3代所長になってからはそのような熱意が失われ、研究所は戦時体制に組み込まれていった。
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