上海経済界での台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/12 04:19 UTC 版)
1907年(清光緒33年)、地元で光復会に参加したが、秋瑾事件後に上海へ逃れている。1910年(宣統2年)、王彬彦らと闡北商団を結成し、後に王曉籟自身も父業の「大来絲業」を継承し、さらに出資して複数の製糸工場を運営した。翌年、上海で辛亥革命の蜂起が発生すると、王曉籟らの闡北商団も革命派に呼応して挙兵している。 1913年(民国2年)の第二革命(二次革命)以後、上海商業銀行、中央信託公司の董事(理事)、上海総商会会董、上海闡北商会会長、上海租界納税華人会主席などの要職を歴任し、上海商業界を代表して関税会議にも列席している。1926年(民国15年)7月、上海商会の推薦により広州で蒋介石と会談し、北伐軍誓師大会にも出席した。翌年の上海労働者による第3次蜂起では、王曉籟も闡北保衛団に指示してこれに呼応させている。蜂起が成功に終わった後、王は商会代表として上海臨時市政委員会主席委員に任ぜられた。 しかし同年4月の上海クーデター(四・一二政変)に際して、王曉籟は反共の蒋介石を支持した。クーデター後、王は江蘇兼上海財政委員会常務委員、財政部特税処副処長、全国巻煙税局局長などの職を歴任している。1930年(民国19年)、上海市商会の改組とともに、理事長に任ぜられ、あわせて全国商会聯合会理事長にも就任した。
※この「上海経済界での台頭」の解説は、「王曉籟」の解説の一部です。
「上海経済界での台頭」を含む「王曉籟」の記事については、「王曉籟」の概要を参照ください。
- 上海経済界での台頭のページへのリンク