上海租界での誤爆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 14:37 UTC 版)
「中国空軍の上海爆撃 (1937年)」の記事における「上海租界での誤爆」の解説
日本軍艦出雲は租界の住民らを盾として使うかのように、国際共同租界の正面の黄浦江に停泊し、そこから上陸した日本軍を支援するための砲撃を宝山、閘北等の中国人居住地区に加えていた。中国空軍は反撃として出雲を爆撃しようとしたが、中国側の公式発表によれば、接近中に日本軍の高射砲で複数の機の爆弾架が被弾してしまったという。 一部の機は爆弾を黄浦江に落とすことに成功したものの、午後4時27分、2発乃至3発の爆弾が南京路のキャセイホテル前の道路とパレスホテルやキャセイホテル自体にも落ち、12人の外国人を含めて、爆発で百人以上が死に、四百人以上が負傷した。 さらに、その数分後の4時30分頃、パイロットは持っていた重爆弾を人のいなかった上海競馬場に投下しようとしたものではないかといわれるが、2発以上の爆弾が誤ってその東にあるチベット通りとエドワード7世大通り(国際共同租界とフランス租界の境界線である)の交差点付近、避難所となっていた大世界娯楽センター(英語版)の前に落ちた。そこは繁華街である上、当時、租界は、前日から始まった第二次上海事変のために多くの避難民が殺到し、その付近の路上には避難所の混雑を逃れた避難民が多くあふれていた状態だったと伝えられる。爆弾により巨大な炎と激しい爆発が起こり、千人以上が死亡、やはり千人前後が負傷したとされる。重量約1,000ポンドと見られる爆弾により、半径50メートルの範囲が壊滅した。犠牲者の大部分は、その服は完全に引き剥がされ、体はバラバラにちぎれた。一つの遅延起爆型と思われる爆弾は、周囲の被害は限定的だったものの、コンクリート、石敷、及び固めた地面の層を貫通し、通りに幅3メートル、深さ2.4メートルのクレーターを造った。また、日本軍の高射砲の砲撃による砲弾の破片や榴散弾の弾丸の落下による国際共同租界での死傷事故も相次いだ。 これら一連の爆撃でノースチャイナ・デイリー・ニュース(英語版)会計部長ウィリアムズ、チャイニーズ・レコーダー紙(英語版)記者ローリンソン、上海市参事会員エスリン、プリンストン大学教授ロバート・カール・ライシャワー(Robert Karl Reischauer, 1907-37)、南部バプテスト連盟の宣教師フランク・ジョセフ・ローリンソン(英語版)ら海外要人が多数犠牲となった。 誤爆の原因については、中国機の爆弾架の損傷の結果とする説の他、当時中国空軍に雇われ参謀長となっていたシェンノートは、中国空軍は通常高空からの爆撃を練習していたものの当日は悪天候で雲があり、低空で爆撃することになったが、新米飛行士がそれに合わせた照準器の調整を行わず、出撃した可能性があることを指摘している。また、もっとありそうなこととして、当時の爆弾落下装置は不安定なことで知られており、投下スイッチがうまく働かなかった可能性を指摘する意見もある。最後の説では、雲の上を飛んでいた日本軍機による盲爆の可能性も否定していない(注:現実には、中国軍機より爆弾が落されてから爆発するところまでを確認した者はなく、先の爆弾架の被弾によるとする中国空軍の説明も、厳密には、爆弾を投下ではなく投棄したことへの説明である。実際に、日本艦出雲を狙ったものだけでなく、爆弾投棄によると思われる黄浦江での爆発も複数確認されている。また、競馬場への投棄という説も、フランス人警官が競馬場の方へ飛んでいく中国軍機を見て、競馬場に落とすかその先の黄浦江の出雲を再爆撃しようとしているものと思ったという証言に基づく。)。 中国軍爆撃機の攻撃は黄浦江の呉淞近くにいたイギリス海軍重巡洋艦「カンバーランド(Cumberland)」及び合衆国アジア艦隊旗艦である重巡洋艦「オーガスタ(Augusta)」の2隻にも向けられた。爆撃機2機の急降下はカンバーランド上空で行われたが、パイロットによる水平飛行への移行操作が早すぎ爆弾を誤った方向に向けたため攻撃は失敗した。中国軍機は悪天候のため両方の艦船を日本の艦船と間違えて攻撃したとされる。また、どちらの艦からも発砲はなかった。 詳細は「オーガスタ (重巡洋艦)」を参照 日本艦の対空砲火により中国軍機は爆撃の際高度を保つことを強いられ、効果的な爆撃ができなかった。しかし、ひとつの爆弾は黄浦江の浦東側のアジア石油社(英国系資本)の設備に命中し、一晩中燃え続けるほどの火災を起こした。 午後5時、山崎良平三空曹操縦、宮田旻大尉偵察の95式水偵は祝鴻信の操縦するノースロップ907号を射撃し黒煙を吐かせた。ついで第34中隊長・周庭芳上尉のカーチス・ホークⅡと20分間の格闘戦になったが、15発の命中弾を受け、形勢不利と見て雲の中に撤収した。また、森澄夫三空曹操縦、藤岡与一一空曹偵察の水偵も梁鴻雲上尉操縦のカーチス・ホークⅢ2410号を撃墜した。 この日の戦闘において日本軍は、艦載機による中国軍機2機と、艦船の高射砲により墜落した李傳謀少尉操縦のノースロップ1408号を加えた3機を撃墜したと発表ただし、祝鴻信機は後部座席の任雲閣准尉を失いながらも帰還している。 後のこととなるが、この誤爆事件を受けて、上海市議会は艦船出雲を日本領事館近くの場所から移動するよう要請、また、上海にいた米英仏の艦船の提督らは戦闘を控え、それぞれの艦船を離す覚書を交わしたが、日本側はこれを同調することを拒否した。しかし、中国軍側は今度は電雷学校(中国語版)所属の魚雷艇による魚雷攻撃を試み、魚雷は外れたものの近くで爆発し、出雲にも損傷があり、この事態を受けて、結局、出雲は川下に移動した。本来、そちらの場所の方が、日本人居留者の保護や収容にはむしろ都合が良かったという。
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