三空とは? わかりやすく解説

三空

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 15:29 UTC 版)

赤松貞明」の記事における「三空」の解説

1941年4月新設され第3航空隊所属零式艦上戦闘機搭乗する赤松によれば司令亀井凱夫大佐英国戦闘機編隊空戦学んで帰国した日本海軍戦闘機搭乗員出身で、全海軍の中でだれとだれが強い、ということをよく知っており、集められ准士官以上は非常に癖があり、下士官クラスも古い者は荒っぽい搭乗員ばかりだった。赤松経験では、戦争に強い者は事務なおざりにしがちであり、3空の隊員たちは、マナーきちんとした海軍の普通の軍人とはちがっていて、荒武者のようであり、戦争には強いがマナーは最低で、「一家」など、やくざっぽい言葉を平気で使っていた。赤松自身は、喧嘩嫌いだったつもりだが腕力には自信があったという。赤松戦闘機乗り一騎討ちと同じで一人一人強くなければ勝てず、戦闘機乗り気質もそこから生じたもの、と考えていたという。 また、赤松によれば、3空の隊員たちの意気込みのすごさは出撃した戦闘機引き返した機がなかったことに現れていたという。開戦当時は、通常の飛行隊では零戦50出撃したら5、6機はエンジンが悪いとして引き返すのが普通だった。しかし3空では亀井司令自身訓示から凄い気合だった。「基地飛び立った戦場に着かなければ帰ってくるな!戦場エンジン停まったら手でプロペラ回して飛んで戻って来い!途中で帰ったぶった切る!」という司令言葉激烈だったがベテラン搭乗員たちとは気心通じていて、精神主義ではなく自分たちは何をすべきか、訓示の意味わかっていた。空中戦は、味方機側の機数が減少する加速度的に不利になり敗北し仲間戦死増える長時間長距離進攻作戦では完全なエンジン機体整備不可欠司令訓示をうけて、赤松たち搭乗員たちはみな出撃前夜は夜も寝ずに、自分飛行機納得ゆくまで徹底的に整備していたという。 1941年昭和16年12月8日太平洋戦争開戦時、3空は台湾高雄基地からフィリピンクラーク基地空襲成功する参加した赤松はフィリピン・イバ基地上空米陸軍カーチスP-40戦闘機1機を撃破。翌9日にはマニラ上空P-40戦闘機1機を協同撃墜ダバオ基地移動して1941年12月28日タラカン島基地攻撃メナド基地移動して1942年1月15日16日アンボン基地攻撃1942年昭和17年2月3日、3空の27機と台南空27機が協同スラバヤ攻撃したスラバヤ上空アメリカ空軍オランダ空軍連合との間に大規模な空中戦発生。このとき、水上飛行艇銃撃終えた先任分隊長黒澤丈夫大尉低空P-40から後上方につかれ攻撃され、クイックロールを2回繰り返し相手機を前方出した際に危険な低速状態に陥っていた黒澤機を、赤松上空から助け入り相手のP-40撃墜した1942年3月4日、3空は小スンダ列島東端ティモール島クーパン基地からのオーストラリアポートダーウィン攻撃参加基地から目標のない海上片道480カイリ (890km) を往復長距離飛行して戦闘するため、燃料都合上目標地上空での空中戦時間20分が限界だった。日本側は戦闘機38機。当日ポートダーウィン上空には豪州空軍戦闘機50機以上が待機していた。双方とも同高度で、相手発見したのも同時で、空中戦闘入り日本編隊最初に左に回った指揮官機そのまま巴戦入っていったのを見て赤松は9機をひきいて一旦高度をとって上空から巴戦中の相手機を攻撃した赤松の隊の最初の攻撃で4機が炎上して墜落していったが、落下傘開いたので墜落機はすべて豪州軍側だったと判った赤松はこの戦闘で3機を撃墜した日本側の零戦全機無事だった赤松は、このとき英空軍スーパーマリン スピットファイア機種識別し戦闘機1機を撃墜し、また相手側は英国からの援軍優秀なパイロットたちだったと聞かされたという。ただし、欧州戦線パイロットたち太平洋戦線中国・ビルマ・インド戦線CBI)へ進出したのは1942年晩秋10月第3週以降で、スピットファイアMkV零戦隊の戦闘機同士戦闘最初に発生したのは1943年3月2日である。 赤松記憶では、ポート・ダーウイン攻撃戦っていたころの3空の搭乗員にはベテラン多く結集し飛行時間が数1,000時間上の優秀な搭乗員ばかりだった。相手同数ならば決し負けことはなかった。豪州ポート・ダーウィン攻撃戦闘がおわり大東亜戦争一段落ついたので、各基地搭乗員入れ替えがあった。そのときベテランたちは各基地散らばった。隊に補充されのこったのは若い搭乗員ばかりになるので、どうしても戦力低下した。そのころの列機搭乗員たちは若くて赤松には使いきれなかった。 赤松戦闘体験および印象によれば開戦時卓越した腕を誇るベテラン搭乗員たちが多く搭乗した零戦は、緒戦期のアメリカ軍P-40豪州軍機、のちに赤松仲間たちソロモン戦線戦ったアメリカ軍グラマンF4F、そして英国軍機に対して著しく強く無敵誇ったという。 1942年昭和17年5月内地帰還し大村航空隊着任1942年9月下旬後輩戦闘機搭乗員岩井勉によれば岩井結婚式会場遅れて素っ裸乱入し『私のLoverさん〜南洋じゃ美人』と歌い踊り参列親族怒りを買い、若い後輩教員たちも海軍搭乗員の歌『飛行機乗り今日花嫁明日後家ダンチョネ』を歌いあきれられたという。 1943年昭和18年7月、第331航空隊着任1943年12月31日英領インドカルカッタ空襲参加英空軍スピットファイア戦闘機2機を撃墜

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三空(さんくう)

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酒田五法」の記事における「三空(さんくう)」の解説

何度上昇下落繰り返した後に値動き上昇傾向(あるいは下落傾向)となり、やがて値動き落ち着いて上昇下落交錯すると三空となる。こうなると相場傾向急変する可能性高く上昇局面なら売り下落局面なら買いと反対売買機会と見る。

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