三空
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1941年4月、新設された第3航空隊に所属。零式艦上戦闘機に搭乗する。 赤松によれば、司令の亀井凱夫大佐は英国で戦闘機編隊空戦を学んで帰国した日本海軍の戦闘機搭乗員出身で、全海軍の中でだれとだれが強い、ということをよく知っており、集められた准士官以上は非常に癖があり、下士官クラスも古い者は荒っぽい搭乗員ばかりだった。赤松の経験では、戦争に強い者は事務をなおざりにしがちであり、3空の隊員たちは、マナーのきちんとした海軍の普通の軍人とはちがっていて、荒武者のようであり、戦争には強いがマナーは最低で、「一家」など、やくざっぽい言葉を平気で使っていた。赤松自身は、喧嘩は嫌いだったつもりだが腕力には自信があったという。赤松は戦闘機乗りは一騎討ちと同じで一人一人が強くなければ勝てず、戦闘機乗り気質もそこから生じたもの、と考えていたという。 また、赤松によれば、3空の隊員たちの意気込みのすごさは出撃した戦闘機で引き返した機がなかったことに現れていたという。開戦当時は、通常の飛行隊では零戦が50機出撃したら5、6機はエンジンが悪いとして引き返すのが普通だった。しかし3空では亀井司令自身の訓示から凄い気合だった。「基地を飛び立ったら戦場に着かなければ帰ってくるな!戦場でエンジンが停まったら手でプロペラを回して飛んで戻って来い!途中で帰ったらぶった切る!」という司令の言葉は激烈だったがベテランの搭乗員たちとは気心が通じていて、精神主義ではなく自分たちは何をすべきか、訓示の意味はわかっていた。空中戦は、味方機側の機数が減少すると加速度的に不利になり敗北し仲間の戦死が増える。長時間の長距離進攻作戦では完全なエンジン機体整備が不可欠。司令の訓示をうけて、赤松たち搭乗員たちはみな出撃前夜は夜も寝ずに、自分の飛行機を納得ゆくまで徹底的に整備していたという。 1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争の開戦時、3空は台湾の高雄基地からフィリピンのクラーク基地空襲に成功する。参加した赤松はフィリピン・イバ基地上空で米陸軍・カーチスP-40戦闘機1機を撃破。翌9日にはマニラ上空でP-40戦闘機1機を協同撃墜。 ダバオ基地へ移動して1941年12月28日タラカン島基地を攻撃。メナド基地へ移動して1942年1月15日、16日にアンボン基地を攻撃。 1942年(昭和17年)2月3日、3空の27機と台南空27機が協同でスラバヤを攻撃した。スラバヤ上空でアメリカ空軍、オランダ空軍連合との間に大規模な空中戦が発生。このとき、水上の飛行艇を銃撃し終えた先任分隊長黒澤丈夫大尉が低空でP-40から後上方につかれて攻撃され、クイックロールを2回繰り返し相手機を前方に出した際に危険な低速状態に陥っていた黒澤機を、赤松が上空から助けに入り相手のP-40を撃墜した。 1942年3月4日、3空は小スンダ列島の東端、ティモール島クーパン基地からのオーストラリアのポートダーウィン攻撃に参加。基地から目標のない海上を片道480カイリ (890km) を往復長距離飛行して戦闘するため、燃料の都合上、目標地上空での空中戦時間は20分が限界だった。日本側は戦闘機38機。当日、ポートダーウィン上空には豪州空軍は戦闘機50機以上が待機していた。双方とも同高度で、相手を発見したのも同時で、空中戦闘に入り、日本側編隊は最初に左に回った。指揮官機がそのまま巴戦に入っていったのを見て、赤松は9機をひきいて一旦高度をとって上空から巴戦中の相手機を攻撃した。赤松の隊の最初の攻撃で4機が炎上して墜落していったが、落下傘が開いたので墜落機はすべて豪州軍側だったと判った。赤松はこの戦闘で3機を撃墜した。日本側の零戦は全機無事だった。 赤松は、このとき英空軍・スーパーマリン スピットファイアと機種識別した戦闘機1機を撃墜し、また相手側は英国からの援軍で優秀なパイロットたちだったと聞かされたという。ただし、欧州戦線のパイロットたちが太平洋戦線、中国・ビルマ・インド戦線(CBI)へ進出したのは1942年晩秋10月の第3週以降で、スピットファイアMkVと零戦隊の戦闘機隊同士の戦闘が最初に発生したのは1943年3月2日である。 赤松の記憶では、ポート・ダーウイン攻撃で戦っていたころの3空の搭乗員にはベテランが多く結集し、飛行時間が数1,000時間以上の優秀な搭乗員ばかりだった。相手と同数ならば決して負けることはなかった。豪州ポート・ダーウィン攻撃の戦闘がおわり大東亜戦争に一段落ついたので、各基地の搭乗員の入れ替えがあった。そのときにベテランたちは各基地に散らばった。隊に補充されてのこったのは若い搭乗員ばかりになるので、どうしても戦力は低下した。そのころの列機搭乗員たちは若くて、赤松には使いきれなかった。 赤松の戦闘体験および印象によれば、開戦時の卓越した腕を誇るベテラン搭乗員たちが多く搭乗した零戦は、緒戦期のアメリカ軍P-40や豪州軍機、のちに赤松の仲間たちがソロモン戦線で戦ったアメリカ軍グラマンF4F、そして英国軍機に対して著しく強く無敵を誇ったという。 1942年(昭和17年)5月、内地に帰還し、大村航空隊に着任。1942年9月下旬、後輩の戦闘機搭乗員岩井勉によれば、岩井の結婚式会場に遅れて素っ裸で乱入し『私のLoverさん〜南洋じゃ美人』と歌い踊り参列親族の怒りを買い、若い後輩教員たちも海軍搭乗員の歌『飛行機乗り〜今日は花嫁、明日は後家ダンチョネ』を歌いあきれられたという。 1943年(昭和18年)7月、第331航空隊に着任。1943年12月31日、英領インドのカルカッタ空襲に参加。英空軍のスピットファイア戦闘機2機を撃墜。
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三空(さんくう)
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何度か上昇・下落を繰り返した後に値動きが上昇傾向(あるいは下落傾向)となり、やがて値動きが落ち着いて上昇・下落が交錯すると三空となる。こうなると相場の傾向が急変する可能性が高く、上昇局面なら売り、下落局面なら買いと反対売買の機会と見る。
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