戦闘機搭乗員
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1928年(昭和3年)3月12日、霞ヶ浦海軍航空隊操縦学生、第18期飛行学生となり、12月8日に飛行学生を卒業、戦闘機専修となり、大村海軍航空隊着任。1930年(昭和5年)1月15日、空母「加賀」乗組。12月1日、海軍大尉に昇進し、霞ヶ浦航空隊教官。柴田は操縦がうまい教官として評判であった。転出時に「編隊操縦教科書」を残していった。在任中、海兵同期の源田実による空中戦現地調査(上海事変1932年2月22日)説明報告を聞いて源田に感心する者を見て源田に魔力があると気づき注意するようになった。1932年(昭和7年)ごろ柴田は堀越二郎(技術者)に七試艦上戦闘機に関して「戦闘機は格闘戦を重視しなければならない、低翼単葉機は格闘戦に向かないから複葉機には及ばないので戦闘機としては疑問がある、戦闘機としては複葉機の高速化を進めるべき、90式艦戦と7試艦戦の速力差では将来性にも疑問がある」と意見するが、1935年(昭和10年)には自分の短見であったと不明をわびている。 1932年(昭和7年)11月1日、空母「鳳翔」乗組。1933年(昭和8年)夏、横須賀海軍航空隊研究会において柴田は「戦闘機の射撃は接近すれば命中率はいいが、敵攻撃機の旋回機銃と差がなくなる。少し離れた位置から確実に命中させる兵器開発・訓練が必要だ。」と意見を出した。しかし海軍航空本部技術部長・山本五十六は「帝国海軍の今日あるは、肉薄必中の伝統精神にある。今後1メートルたりとも射距離を延ばそうとすることは、絶対に許さん」と認めなかった。柴田は「上にわけのわからないのがいると必ず負ける、歴史を無視した精神偏重で、戦闘機や技術開発に努めるべきだったが山本には能力も英知にも欠けていた」と批判している。 11月1日、海軍練習航空隊高等科学生(第4高等科飛行学生)。受験には不合格となったが、高等科へは進学できた。柴田は酒巻宗孝中佐による計らいと考えている。1934年(昭和9年)7月、第4期高等科飛行学生を2番の成績で卒業。第1航空戦隊・戦闘機分隊長、11月1日、大村海軍航空隊着任。 1935年(昭和10年)10月、横須賀海軍航空隊(横空)戦闘機分隊長兼教官。軍令部部員・高橋千隼は「柴田君は激情家で口下手なため説得力に乏しく、会議でもその真意の伝わらないうらみがあり、海軍航空にとって惜しいことだった」と話している。 1936年(昭和11年)11月、海軍少佐。横空では、7.7ミリ固定機銃の各体勢での全弾無故障実験研究、改正空中戦闘教範草案(援護、旋回戦法)、「海軍演習審査基準」に対する改正意見具申、戦闘機航続延伸のための落下タンク(増槽)装備要望、艦隊決戦における戦闘機用法の研究などを上官の小林淑人に提出する。また高速垂下標的を発明した。横空副長兼教頭・大西瀧治郎は宴会で黙り込んでいる柴田を他の者のようになぜ自分の意見を何も言わないと殴り、また軍を辞職するように迫ったこともあった。しかしその後二人で飲むことを誘われてもいる。 柴田は旋回戦法という不利な体勢から巻き返す格闘戦における技術を発明する。敵に追尾された状態で水平状態を保ち接近された時にロールし速度を落として後ろに回り込む戦法である。柴田によればクイックロールを主用することからロール戦法とも呼ばれるという。柴田は体質的にGに弱く、部下に空戦演習で勝つことができなかったため考案した。赤松貞明などに初めて試した際には勝てたが、判定基準が柴田の視点によるものであったため納得しないものもいた。その後、太平洋戦争直前まで、部下に対して旋回戦法を教育していた。開戦後は空戦の基本に戻り敵より高度を取って攻撃することを強調し竜巻落としと名付けていた。 当時流行した戦闘機無用論の援護戦闘機軽視に反対しており、横空に着任後、三和義勇に爆撃機を敵に届けるために援護機の防御的役割の必要性を説いたが、「日本海軍の伝統は攻撃精神、それでも君は日本人か」と言われる。大西瀧治郎にも「君は戦闘機無用論には反対のようだが僕に援護戦闘機はいらない」と言われる。その後、空母「加賀」戦闘機隊長に着任した柴田は戦闘機無用論者の「高速爆撃機に戦闘機の射撃は効果が薄い」という主張への反論として高速垂下標的を使い、1937年(昭和12年)5月の連合艦隊航空戦技において加賀が標的命中弾数が1位となり艦長・稲垣生起からも支持を得る。
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