実験研究
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「アベリー-マクロード-マッカーティの実験」の記事における「実験研究」の解説
肺炎レンサ球菌は、抗体形成を誘導する多糖カプセルを有する滑らかな(smooth)コロニーを特徴とする。異なる型はその免疫学的特異性にしたがって分類される。 アベリーがとった精製法は次のようなものであった。最初に細菌を熱で殺し食塩水に溶ける成分を抽出する。次に、クロロホルムを使用してタンパク質を沈殿させ、多糖カプセルを酵素で加水分解する。型特異性の抗体により起きた免疫学的沈殿を使用して、カプセルが完全に破壊されたことを確認する。次に、活性部分をアルコール分別により沈殿させると、攪拌棒で除去できる繊維状のDNA鎖が出てくる。 化学分析により、この活性部分の炭素、水素、窒素、リンの比率がDNAの化学組成と一致していることが分かった。形質転換の原因となったのは少量のRNA、タンパク質、またはその他の細胞成分ではなくDNAであることを示すために、アベリーとその同僚はいくつかの生化学的試験を使用した。彼らはトリプシン、キモトリプシン、リボヌクレアーゼ(タンパク質やRNAを分解する酵素)は影響を与えないが、「デオキシリボヌクレオデポリメラーゼ」の酵素調製物(DNAを分解する可能性がある、多くの動物源から入手可能な粗調製物)は、抽出物の転換力を破壊した。 批判と課題に対応したフォローアップの作業には、1948年のMoses KunitzによるDNAデポリメラーゼ(デオキシリボヌクレアーゼI)の精製と結晶化、およびRollin Hotchkissによる精密な作業が含まれ、これらにより、精製されたDNAにおいて検出された実質的にすべての窒素はヌクレオチド塩基のアデニンの分解生成物であるグリシンに由来し、検出されなかったタンパク質の混入はHotchkissの推定では最大で0.02%であることが示された。 アベリー-マクロード-マッカーティの実験の実験結果はすぐに確認され、多糖カプセル以外の遺伝的特徴にも拡張された。しかし、DNAが遺伝物質であるという結論を受け入れることには当時はかなりの抵抗があった。フィーバス・レヴィーンの影響力があった「テトラヌクレオチド仮説」によると、DNAは4つのヌクレオチド塩基の繰り返しユニットからなり、生物学的な特殊性はほとんどなかった。したがって、DNAは染色体の構造的構成要素であると考えられていたのに対し、遺伝子は染色体のタンパク質構成要素で構成されている可能性が高いと考えられていた。この考えは1935年のウェンデル・スタンリーによるタバコモザイクウイルスの結晶化とウイルス、遺伝子、酵素の類似性により補強された。多くの生物学者は遺伝子は一種の「スーパー酵素」であるかもしれないと考え、スタンレーによるとウイルスはタンパク質であり多くの酵素と自触媒の特性を共有することが示された。さらに、細菌には染色体と有性生殖が欠如していることから遺伝学を細菌に適用できると考える生物学者はほとんどいなかった。特に、1950年代に分子生物学の新たな分野で影響力を持つことになるファージグループとして非公式に知られる遺伝学者の多くは、遺伝物質としてDNAを却下した(そしてアベリーとその同僚の「厄介な」生化学的アプローチを避ける傾向があった)。ロックフェラー研究所のフェローAlfred Mirsky含む一部の生物学者は、形質転換の原理が純粋なDNAであるというアベリーの発見に異議を唱え、代わりにタンパク質の混入が原因であることを示唆した。ある種の細菌では形質転換が起きたが、他の細菌では複製できず(高等生物のものであっても)その重要性は主に医学に限定されているようであった。 アベリー-マクロード-マッカーティの実験が1940年代と1950年代初頭にどれだけ影響力があったかについては、科学者の間で意見が分かれている。Gunther Stentはほとんど無視され、その後祝われただけであると示唆した(遺伝学が起こる数十年前のグレゴール・メンデルの研究と同様)。ジョシュア・レーダーバーグやLeslie C. Dunnらは、この実験の初期の重要性を証明し、分子遺伝学の始まりとしてこの実験を引用している。 何人かの微生物学者や遺伝学者は、1944年以前に遺伝子の物理的および化学的性質に関心を示していたが、アベリー・マクロード・マッカーティ実験によりこの主題における新たな関心が広がった。原著論文では遺伝学について具体的には触れていなかったが、アベリー同様この論文を読んだ多くの遺伝学者が遺伝的関連(アベリーが遺伝子そのものを純粋なDNAとして分離した可能性があること)に気づいた。生化学者のエルヴィン・シャルガフ、遺伝学者のハーマン・J・マラーらはこの結果を、DNAの生物学的特異性を確立し、DNAが高等生物で同様の役割を果たす場合、遺伝学に重要な影響を持つとして称賛した。1945年、王立協会は細菌の形質転換に関する研究の一部としてコプリメダルをアベリーに授与した。 1944年から1954年まで、この論文は少なくとも主に微生物学、免疫化学、生化学に関する研究で239回引用された(引用は年ごとに均等である)。Mirskyの批判に応えてロックフェラー研究所でマッカーティらが行ったフォローアップの研究に加え、この実験は微生物学でかなりの量の研究を刺激し、細菌の遺伝と有性生殖生物の遺伝学の類似性に新たな光を投げかけた。フランスの微生物学者André Boivinは、アベリーの細菌の形質転換の結果を大腸菌に拡張したと主張したが、これは他の研究者によって確認されなかった。しかし、1946年、エドワード・ローリー・タータムは大腸菌における細菌接合を実証し、アベリーの特異な形質転換方法が一般的ではないとしても遺伝学が細菌に適用できることを示した。アベリーの研究は、また、モーリス・ウィルキンスが資金提供者から生体分子ではなく細胞全体に研究を集中するよう圧力をかけられていたにも関わらずX線結晶構造解析によりDNAの研究を続ける動機付けにもなった。 論文にかなりの数引用され、発表後の数年間で肯定的な反応を受けたにもかかわらず、アベリーの研究は多くの科学コミュニティには無視されていた。多くの科学者に好意的に受け取られたが、主流の遺伝学研究に深い影響を与えることはなかった。この理由の1つは、遺伝子が化学的構成ではなく育種実験における振る舞いによって定義される古典的な遺伝学実験では、ほとんど差異がなかったためである。マラーは興味を持っていたが、ファージグループのほとんどのメンバーと同様に、遺伝子の化学的研究よりも物理的研究に重点を置いていた。アベリーの研究もノーベル財団により無視されたが、のちにアベリーにノーベル賞を授与できなかったことに対する後悔を表明した。 1952年のハーシーとチェイスの実験の時まで、遺伝学者はよりDNAを遺伝物質とみなす傾向になっていた。また、アルフレッド・ハーシーはファージグループの中で影響力のあるメンバーであった。エルヴィン・シャルガフはDNAの基本組成が種によって異なることを示しており(テトラヌクレオチド仮説とは対照的)、1952年にRollin Hotchkissはシャルガフの研究を確認し、アベリーの形質転換原理にタンパク質がないことを実証する実験的証拠を発表した。さらに、細菌遺伝学の分野は急速に確立されつつあり、生物学者は細菌や高等生物についても同じように遺伝について考える傾向が増えていた。ハーシーとチェイスが放射性同位体を使用してバクテリオファージの感染時に細菌に入ったのは主にタンパク質ではなくDNAであることを示した後、DNAが材料であることがすぐに広く受け入れられた。はるかに正確ではない実験結果(細胞とDNAに入るタンパク質の量はわずかではないことが分かった)であったにもかかわらず、ハーシーとチェイスの実験は同程度の異議を受けなかった。その影響は、ファージグループのネットワークの拡大と、翌年ワトソンとクリックにより提案されたDNA構造周辺の注目の高まりにより後押しされた(ワトソンもファージグループのメンバーであった)。しかし、今から考えると、どちらの実験もDNAが遺伝物質であることを明確に証明している。
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