兵器開発
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第3軍攻城工兵廠で開発した兵器は次のとおり。 手榴弾:竹製、空缶製、ブリキ製 迫撃砲:チーク材製の発射筒から1kg及び1.5kgの弾丸を発射する。 転送爆発機:鉄板製防楯の裏に爆薬100kgを詰めたビール樽を車輪として取り付け点火して敵の壕内に落下・爆発させるもの。 代用隠顕燈:夜間攻撃用塹壕灯光器 改良鉄条網切断鋏:高圧電流が流れている鉄条網を切断する絶縁された鋏 鉄条網爆破具:2つ割りにした竹に火薬を詰め鉄条網の上で爆発させこれを切断する器具 伏射防楯:携帯防楯を伏射状態で使用できるように改良したもの。 膝射防楯:携帯防楯を膝射状態で使用できるように改良したもの。 対壕用防楯:塹壕防御用防楯 白熱点火器応用:白熱電線を使って100m四方に配置した地雷を同時に爆破する装置 手榴弾防網:敵の手榴弾から防御する金網 擲弾防楯:薄い鉄板を塹壕上に被せ手榴弾を塹壕の後ろに落として爆発させるもの。 銃眼防楯:携帯防楯に銃眼を付けた改良型 転送防楯:大きな防楯に車輪を付け押し進む防御装置
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兵器開発 (1992-1993年)
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「オウム真理教の歴史」の記事における「兵器開発 (1992-1993年)」の解説
「麻原彰晃#マハーヤーナとヴァジラヤーナ」および「オウム真理教の兵器」も参照 1992年(平成4)、麻原は「またヴァジラヤーナを始めるぞ」と話した。1992年には油圧シリンダー等を製作する年商40億のオカムラ鉄工の社長がオウム在家信者で、社長が教団に経営難を相談すると、経営陣に麻原らオウム幹部が就任、乗っ取りに成功した(オカムラ鉄工乗っ取り事件)。 1993年(平成5年)前後から再び麻原は教団武装化の「ヴァジラヤーナ」路線を再開。新アメリカ安全保障センター(CNAS) によれば、1993年初め頃には、「オウム軍」創設のための会議が開かれ、X線兵器、プラズマ兵器、UFO、核兵器などの開発も提案された。このほか、AK-74の生産を試みたり(自動小銃密造事件)、NBC兵器の研究を行うなど教団の兵器の開発を進めた。 1993年2月、インテグラル・ロケット・ラムジェットなどの兵器情報収集のために信者らはロシアに赴き,軍施設や研究所で兵器の説明を受け、さらに自動小銃AK-741丁を入手し、帰国後AK-74を模倣した自動小銃の製造に取り組んだ。 この頃、アメリカにおいて新興宗教団体ブランチ・ダビディアンに対して1993年2月28日に警察が強制捜査に入り、銃撃戦となった。膠着後、当局は4月19日に強行突入、ほとんどの信者は焼死し、81名の死者が出た(ウェーコ包囲)。麻原はブランチ・ダビディアンの次にオウムが襲撃されると説法で述べており、この事件を強く意識していた。 1993年4月10日、福岡支部で麻原は「この93年から2000年にかけてハルマゲドンは必ず起こるし、そしてそれへの準備をしているものが勝利する」、ハルマゲドンで使われる兵器は光の波の合致によって生じる電圧の力によって生じるプラズマを用いたプラズマ兵器であり、既にアメリカは湾岸戦争でプラズマ兵器を使用し、イラク兵9万2000人が蒸発したと説いた。麻原によれば、第三次世界大戦で使われるプラズマ兵器は電子レンジの強烈なもので、体の水元素にプラズマを発生させ、体を蒸発させる。アメリカのプラズマ兵器は、人工衛星でプラズマを反射させるプラズマ反射衛星砲である(アニメ『宇宙戦艦ヤマト』に反射衛星砲が登場する)。これに対して、ロシアの恒星反射砲は、3kmの鏡を宇宙空間に打ち上げて太陽エネルギーを地上に反射させる。第三次大戦では、人類が三分の二消滅するのも不思議ではない、という。ニコラ・テスラが原理を発明したとされるプラズマ兵器では人工衛星とアメリカ本土から発信された電波とが焦点を結び、至る所に自由にプラズマを発生させ、低周波数体系の場合は炎となり、高周波数体系の場合は水元素、人間で言えば人間の水元素が蒸発すると麻原は説いた。1993年春、麻原は、オカムラ鉄工所のプラズマ切断機を参考に、マイクロ波を発生させて物を溶かすプラズマ兵器の製造を指示した。 1993年4月に核兵器の材料ウラン鉱石の国内調査を実施。さらにウラン発掘のためにオーストラリア西部の土地購入を井上らが開始、購入した牧場地で1993年9月8日から18日までウラン採掘調査をしたが発見できなかった。早川元教団幹部によれば、ウラン鉱脈は見つけたが、1993年9月に麻原一行が危険物持ち込みにより空港で足止めを受け、入国はできたが、一行へのビザが下りなくなったために、ウラン開発はできなくなり牧場は1994年秋に売却された。 1993年5月にもロシアに赴き、弾丸の製造法や火薬プラント、自動小銃の金属表面への窒化処理法について調査、窒化炉の図面等を入手、帰国後設計を始めた。 1993年以降は麻原がオウム真理教放送等を除くメディアに登場することはなくなり、国家転覆を狙った凶悪犯罪の計画・実行に傾斜してゆく。 土谷正実、中川智正、滝澤和義らによって、サリンなど化学兵器の合成にも成功した。1993年6月頃、第1サティアン4階でサリンの生成実験を始め,ダミー会社が購入したメチルホスホン酸ジメチルの反応を得て、1993年8月にサリンの生成に成功した。麻原はこのころ「私の今生の目標は最終完全解脱と世界統一である」と話し、第7サティアンに70tのサリンを生成するプラントの建設を指示した(サリンプラント建設事件)。サリンをヘリコプターで散布しようとして信者を1993年9月にアメリカに派遣しヘリ免許を取得させた。1993年10月18日には広報技術部の名称を真理科学技術研究所に変更した。 麻原とフリーメイソンについては「#予言」を参照 サリン合成後の1993年秋、麻原は、フリーメイソンが米軍や公安やJCIAに命じて教団にサリンやイペリットを撒いているが、フリーメーソンのボスはロックフェラー家とロスチャイルド家で、後者が上だとする。麻原は自分が近代フリーメイソンを創り、アメリカ独立戦争の時にもフリーメーソンのリーダーであったとしながら、現在のフリーメーソンは際限のない欲望を肯定する物質主義となっており、フリーメーソン国家のアメリカとオウムは将来戦うことになるだろう、と述べ、様々な兵器開発は、上九一色村に攻めてくる米軍との戦争への準備であった。また、麻原が敵視していた創価学会の池田大作を標的とし、1993年11月と12月18日に池田大作サリン襲撃未遂事件を起こした。また、坂本弁護士の業務を継承した滝本太郎弁護士を狙った滝本太郎弁護士サリン襲撃事件も1994年5月9日に起こし、敵対者の暗殺を試みた。 生物兵器の開発も再開し、遠藤誠一が炭疽菌を開発した。1992年から猛毒の炭疽菌やボツリヌス菌などの研究室を作り、1993年5月には8階建ての亀戸道場内に大量培養施設を建設、同年6月28日と7月2日に屋上から周辺に炭疽菌を噴霧した。この時の散布計画の総責任者は上祐だった。しかし、高圧で菌が死滅しており、異臭騒ぎにとどまった(亀戸異臭事件)。その後,炭疽菌培養施設を第二上九に移転し、1993年7月8月、東京都内で噴霧車から細菌を散布した。 違法薬物密造に成功したのはLSD、メスカリン、覚醒剤で、PCP、ブフォテニン、マクロマリン、コカインを研究し、一部は完成した。サボテンに含まれる天然物質メスカリンは警察の捜査に備えて、「儀式に使っただけで、麻薬成分があるとは知らなかった」と言い逃れをする予定だった。
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兵器開発
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イスラエル軍が持つ兵器の中で有名なものは、小火器、戦車および装甲兵員輸送車(APC)、戦闘機などである。その他にはアメリカとの共同や資金協力で開発した対弾道ミサイル・地対地ロケット弾防衛ミサイル(アローやアイアンドーム)、偵察衛星なども保有している。核兵器をはじめとする大量破壊兵器の開発および保有が報道されているが、政府が公式にこれを認めたことはない(#核兵器の保有について参照)。
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兵器開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:23 UTC 版)
「War Thunder」の記事における「兵器開発」の解説
兵器を開発するには「リサーチポイント(RP)」が必要になる。このポイント及びゲーム内通貨の「シルバーライオン(SL)」は、主に戦闘によって獲得できる。兵器開発の為のRPは、その兵器が属する国・ツリーの兵器であればどれを使用してもその開発分に加算される。たとえば、Ju87R-2を開発するために使用できる機体は、ドイツの航空機であればどれでもよく、仮に開発済みであるならば、Ju87R-2よりランクが高いFw190A-1やMe410を使用してもJu87R-2の開発は進められる。ただし、開発しようとする兵器の直前の兵器は加算されるRPにボーナスが付き、逆にあまりにもランクが離れた兵器で開発しようとすると(たとえばランクVのMe262の開発中にランクIのHe51を使用してRPを獲得する場合など)ペナルティが課せられ、RPの獲得値が少なくなってしまう。そのため、出来るだけランクなどが近しい兵器で開発した方がその進行は早い。 空軍は戦闘機・攻撃機・爆撃機など航空機のみ、陸軍は戦車・対戦車自走砲・自走式対空砲など戦闘車両のみといった分類がされている。例えば、アメリカのP-47は史実では「アメリカ陸軍航空軍」の戦闘機だが、WarThunderでは「空軍」の開発ツリーとなる。 開発を完了した兵器はSLを支払うことによって購入できる。兵器の購入は台数制限が無く、ガレージを圧迫することは無い。 また、研究ツリーの前の機体で戦闘を行うことでRPがプラスされる。
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兵器開発
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1919年にはスペイン・オランダ・スウェーデン・日本など比較的中立的かつ生産設備が整った外国で航空機や戦車や潜水艦Uボートの建造を行った。武装民兵集団に大量の武器を提供して名目上、軍の武器にならぬように工作した。軍事演習をソ連でおこなったこともある。 条約の監視をかいくぐるため、様々な兵器の開発が行われた。重機関銃と軽機関銃を兼ねる名作汎用機関銃MG-34/42や世界初の弾道ミサイルV-2(A-4)等が開発されている。またドイッチュラント級装甲艦も条約の制限を逃れる形で作られている。
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兵器開発
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岸本は日本海軍に特徴的な2つの兵器開発に携わった。酸素魚雷と特殊潜航艇である。水雷の専門家として経験を積んでいた岸本は、艦政本部第一部第二課長に就任すると、まず酸素魚雷の開発を推進した。酸素魚雷の開発はイギリス海軍が先行していたが、危険すぎて実用に適さないものとされ、日本でも酸素濃度50%の段階までは進んだものの停滞していた。そうした中で岸本は純酸素魚雷を開発しようとしたのである。海軍部内でも反対する者が多く、当時の軍務局長である豊田貞次郎に実験中止を提案されたが、岸本は主張を曲げず、設計主任朝熊利英、呉海軍工廠実験部員大八木静雄(のち技術少将)らと計画を進め、濃度100%の純酸素魚雷の開発に成功。艦隊決戦の有力兵器として1936年(昭和11年)に正式採用され、ルンガ沖夜戦など、実戦で大きな戦果を収めた。岸本はこの功績により勲二等に叙されている。 しかし、酸素魚雷がその能力を発揮するには目標に命中させなければならない。岸本は艦隊決戦の最中に敵艦隊に接近し、高速で走る酸素魚雷を発射することで、より確実に命中させることを狙ったのである。岸本の当初の構想は二人乗りで爆薬1.5トンを搭載した人間魚雷であった。 この時期は満州事変の影響で日米間は緊張状態にあり、開発を急ぐ岸本は軍令部総長伏見宮博恭王に直訴に及んだ。「ぶつけるのではないだろうな」との疑念に、生還の道を講じてあることを説明し開発は許可された。その結果生まれたのが、特殊潜航艇、別名甲標的である。しかし想定とは異なり、真珠湾、シドニー、マダガスカルなどの進入が難しい軍港を攻撃する用途に使用され、大きな戦果を挙げることはできなかった。なお岸本は特殊潜航艇の開発により海軍技術章を受章。同章の一人目の受章者となった。
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